🗓 2021年05月22日
吉海 直人
事の起こりは、古典和歌の外国語訳を目にしたことでした。たまたま出ていた「ほととぎす」の訳が、どれも「クックー」になっていたからです。日本の「ほととぎす」は、外国には棲息していないのかどうか、きちんと鳴き声を確認すべきかもしれません。
逆に日本の古典に「カッコウ」は登場しておらず、そのため「ほととぎす」との混同は生じていないと思っていました。ところが後になって急に不安になってきました。それが根拠なしの思い込みだったことに気づいたからです。日頃「常識の嘘に気をつけろ」と叫んでいる私も、常識の落とし穴にはまっていたのです。
あらためて古典で「ほととぎす」と「カッコウ」の混同はないのかどうか考えてみました。両者の大きな違いは、鳴き声と大きさでしょう。「カッコウ」の方が大きくて、「ほととぎす」の方が一回り小さいとされています。それもあって西洋では、「ほととぎす」を「小カッコウ」と呼んで区別しているところもあるそうです。その「小カッコウ」は一体なんと鳴くのでしょうか。
平安時代の文学に、「ほととぎす」の大きさを描写した例は見当たりません。同様に「ほととぎす」の鳴き声(擬声語)を表記している例も見当たりません(私が知らないだけかもしれませんが)。大きさも、なんと鳴いたのかもわからないのに、勝手に「ほととぎす」と決めつけていたのです。
そこで解決のヒントを模索してみました。「ほととぎす」は別称が多いことで知られていますが、よく見るとその名称の中に、鳴き声から命名されているものがあります。実は鳥の名前の何割かは、その鳴き声から命名されているといわれています。「カアカア」鳴くのがカラスで「チュンチュン」鳴くのがスズメ(チュンチュンメ)という具合です。
その線で考えると、「カッコウ」となく鳥が「郭公」で、「ホトホト」(?)と鳴くのが「ほととぎす」になります。その異名を見ていると、真っ先に「霍公鳥」が目につきました。この「霍公」は「カッコウ」という鳴き声ではないかと思ったからです。
しかも「霍公鳥」は、『万葉集』特有の表記でした。というより『万葉集』に多彩な異名はなく、「霍公鳥」以外には「ほととぎす」(万葉仮名表記)しかありません。これは前漢の霍去病将軍に因んで「霍公」と命名とされたといわれていますが、「カッコウ」と読めることこそが重要ではないでしょうか。ひょっとして『万葉集』の「霍公鳥」は、「カッコウ」のことを指しているかもしれないと思ったのです。
もう1つ、『万葉集』と『古今集』以後のほととぎすの歌を調べていて、すぐに疑問を抱いたことがあります。それは「ほととぎす」の出現時期が1か月ほどずれていることです。要するに『万葉集』では4月(立夏)になってからの鳴き声(初音)を詠じているのに対して、平安時代には5月になってからの鳴き声(初音)が主体になっていたのです。
たとえば大伴家持は旧暦4月1日に、
と詠じています。これによれば、ほととぎすは4月に鳴き始める鳥だったことがわかります。それに対して『古今集』では、
と5月に鳴く鳥として詠まれています。ですから『万葉集』では初夏の鳥というか、夏の訪れを告げる鳥なのに、『古今集』の5月ではその役割はもはや認められません。
加えて平安時代では、西行が『山家集』で、
と詠んでいるように、5月になったら堂々と鳴けるけれども、4月には忍んで鳴かなければならないという決まりがあったようです。そのため4月の鳴き声は「忍び音」と称とされていました。もちろんそれは人間側の事情です。
その「忍び音」ですが、『万葉集』や『古今集』の歌には用いられていません。初出は遅れて『和泉式部日記』の、
でしょう。この歌にしても4月30日に詠まれており、明日(5月1日)になったら「忍び音」とは言わないことが察せられます。この初音の1か月のずれ、みなさんは気になりませんか。
もっとも『万葉集』には153首の「ほととぎす」が詠まれているので、歌われ方に幅があります(詠まれた場所もまちまちです)。中でも大伴家持は、一人で63首も「ほととぎす」を詠じており、「ほととぎす」大好き人間といえます。その家持には、
と5月の初音を読んでいるものもあって、『万葉集』というか家持の中でも不統一であることが察せられます。例えば「ほととぎす」と「霍公鳥」表記が使い分けられているとか、昼に鳴くのが「カッコウ」で、夜に鳴くのが「ほととぎす」と区別されていればいいのですが、これも不明瞭です。あるいは閏月の関与とか場所の違いも考えられますが、それできちんと説明がつけられるわけではありません。
現実に鳥の生態を調べてみると、日本に飛来するほととぎすの仲間は、「カッコウ」・「ほととぎす」だけでなく、「ツツドリ」・「ジュウイチ」を加えた四種だそうです。このうち「ツツドリ」が一番早く飛来するとのことで、これが「霍公鳥」の正体ならば問題はすっきり解決します。鳴き声は「ポポ」ですが「カッコウ」と聞こえないことはありません(「ジュウイチ」は「十一」と鳴きます)。
以上、「ほととぎす」の翻訳を出発点に、古典の「ほととぎす」の中に「カッコウ」が混入している可能性があること、それにもかかわらず「ほととぎす」と「カッコウ」を区別できていないことを提起してみました。日本でも西洋の「ほととぎす」翻訳と事情は同じだったのです。