🗓 2024年08月19日

吉海直人

カタルパについて、新島襄が初めて日本に持ち帰ったという話が、事実に反していることは前のコラムで指摘しました。間違いは「初めて」だけではありません。襄が種子を持ち帰ったことを示す資料もありません。これはあくまで「あらまほしきカタルパ伝承」(といわれている)ではないでしょうか。
 それに関連して、新島襄はカタルパに対して思い入れが強かったとも語られています。たとえばネットに出ていた「山歩クラブ」の「カタルパ」には、宇治郷毅氏の「キャンパスの樹木」(同志社時報139・2015年4月)から以下のように引用されていました。
 カタルパは新島先生にとって特別に思い入れの強いものであったことがわかる(1)。苦節十年に及んだ先生のアメリカ留学時代、初夏に咲くこの花を見て日本の花々を思い出し、さらには両親や友人を偲んだのであろうか。そして帰国後、この木を同志社の校庭に植えることにより、物心ともに大きな援助を受けた多くのアメリカの恩人、友人を忘れないようにしたのであろうか。もしそうだとしたら、カタルパは同志社とアメリカを結ぶうるわしい親善友好の絆とも言えるであろう。〈以下略〉
 もちろん文末が「あろうか」と推量になっているのですから、事実をねじ曲げているとまではいえません。筆はさらに進み、襄と蘇峰との師弟愛に留まらず、カタルパの植樹が九州各地に広がっていることについて、

その意味ではカタルパは、新島先生と蘇峰の師弟愛を伝えるのみでなく、同志社と熊本さらに九州の人びととの出会いを用意しているのである。まさに工学部教授であった故末松力作先生が言ったように、「樹木は人と人との出会いの象徴」なのである。

と、カタルパ植樹によるプラス効果に言及され、最終的に、

私は同志社のすべての諸学校に、新島先生ゆかりのカタルパの木が植樹され、同志社の生徒と学生がこの木を見て新島先生とアメリカとの関係、同志社と熊本との関係について、学ぶ契機になってほしいと願っている。

とカタルパ植樹にあらまほしき願望が託されています。大変見事な文章なので、無条件に受け入れたくなりますね。それが一番危険なのです。新島襄は徳富蘇峰に種子を与えたのではなく、蘇峰の父一敬に渡しているとあるのに、それがどうして師弟愛の象徴になるのでしょうか。事実と願望は分けて考えるべきではないでしょうか。

それにもかかわらず、このところ徳富記念園のカタルパの苗木を植樹することが、一つの運動となって広がりを見せています。それに連動して、あらまほしきカタルパ伝承もセットで広がっています。そういった校友会支部の熱心な活動に水を差すつもりはないのですが、本当に新島襄はカタルパに特別な思い入れがあったのでしょうか。そのことに確かな根拠があるのでしょうか。私にはその根拠が見つけられません。ご存じの方は是非ご教示ください。
 仮に新島襄がカタルパに思い入れがあったのなら、新島旧邸や同志社英学校の校庭に植えられていてもおかしくないですよね。あるいは書簡や日記などにコメントがありそうなものです。ところが新島旧邸にカタルパが植えられているという話を聞いたことがありません。また同志社大学今出川キャンパスにしても、カタルパの古木はおろか若木を見ることもありません(2)。新島襄のというか、同志社の原点(本家本元)にカタルパの痕跡は見当たらないのです。私が無知なだけなのかもしれませんが、ここからいえることは、同志社は最近までカタルパに対して思い入れなどなかったという事実です。思い入れどころか、同志社には新島襄にまつわるカタルパ伝承などなかったようです。
 むしろカタルパは、同志社が創立百周年を迎えた年に、いきなり外部から同志社にというか末光力作氏に突き付けられました。それは末光氏が語っていることですが、昭和62年5月のNHKニュースセンター9時という番組で、唐突に徳富記念園のカタルパの開花が映し出され、それに合わせて新島襄が徳富蘇峰に贈ったものというコメントが添えられました。カタルパへの注目は、このテレビ放送がきっかけだったのです。逆に考えれば、それ以前に同志社関係者は誰一人、末光氏さえもカタルパに関心など抱いていなかったことになります。
 このテレビ報道を受けてか、同志社女子大学で動きがありました。女子大学の秦芳江氏が徳富記念園から苗木を譲り受け、平成3年に京田辺の新島記念講堂前にカタルパを植樹しました。これが同志社キャンパスにおける初のカタルパです。秦氏は続いて平成22年に、今度は今出川の栄光館前に植樹しています。この秦氏による植樹が契機となったらしく、蘇峰記念園のカタルパを親木(3)とする苗木が、熊本支部・久留米クラブや神奈川支部の校友会活動の一環として、まるでブームにでもなったかのように関係各地で続けられました。それによって新島襄を起点とするカタルパの輪は、着実に大きく広がっています。このまま進むと、遠からずカタルパは同志社のシンボルツリーとして確立しそうな勢いです。
 ここで再度繰り返しますが、肝心の新島旧邸にも同志社大学今出川キャンパスにも、今もってカタルパの植樹はなされていません。つまり同志社にカタルパは不在なのです。どうも同志社の内と外とに温度差があるような気がしてなりません。一度立ち止まって、カタルパ伝承の根拠を徹底的に洗い直してみてはどうでしょうか。

〔 注 〕

  1. 末光力作氏「新島襄先生と植物」(新島研究72・1988年4月)にも、「新島先生にとっても〞思い出の樹木〟であったに違いない」と憶測を交えて述べられています。
  2. 末光氏はかつて同志社中学校にカタルパの古木があったと述べられていますが、それはアメリカのカタルパではなく、中国原産の「きささげ」だったと思われます。
  3. 残念なことに、明治10年代に植えられたとされる徳富記念園のカタルパは、昭和33年の台風で倒れてしまいました。幸い昭和4年に撮影された蘇峰一家の記念写真があり、その時点でもかなりの大木であることがわかります。現在はその二代目三代目が植えられているとのことです。