🗓 2025年06月14日
吉海 直人
とかく古典文学の研究者というものは、何についてもその起源とか由来を調べたくなる悪癖があるようだ。私もその例に漏れないのだが、特に私は中国起源でないかどうかをいつも気にしている。というのも平安時代の文化は、暦・年中行事などたいていは中国から伝来してきたものばかりだからである。一般に日本独自の文化だと思われているものの大半が、実は中国文化を起源とするものなのである。
では「蕎麦」はどうなのだろうか。そこで調べてみたところ、やはりその起源は中国の雲南省・四川省・東チベットにまたがる三江地域と推定されていた。また考古学の発掘調査によれば、北海道函館市のハマナス野遺跡から、炭化した蕎麦の種子が出土していることから、既に縄文時代には日本に渡来し、栽培され食べられていたとされている(そばの花粉ならもっと遡る)。もちろん日本は稲作主流であるが、旱魃などで稲が不作の時や、麦も育たないような荒れた土地あるいは寒冷地の対策として、蕎麦の栽培が奨励されていた。そのことは『続日本紀』巻九の元正天皇養老六年(七二二年)条に記載されている。米や小麦に比べて栄養価が高いのも、蕎麦の長所としてあげられる。
そもそも漢字で「蕎麦」と書かれていることからして、外来の香りがする。加えてどうしてこれを「そ・ば」と読めるのかもわからない。「蕎」が「そ」で「麦」が「ば」ではない。というより「蕎」だけで「そば」と読める。そうすると「麦」は不要になる。時代を遡ってみると、古くは「蕎麦」を「そばむぎ」といっていたことがわかった。それなら納得できる。
十世紀に成立した『本朝和名』や『和名類聚抄』という辞書を見ると、「和名曽波牟岐 一云久呂無木」とあるので、「そばむぎ」が正式名称であり、別称として「くろむぎ」とも称されていた。どうやら古くは大麦・小麦の仲間と認識されていたようだ。もともとそばの実は三角形でとがっているので、それを山の稜に見立てて「稜」(そば)といったらしい。「くろむぎ」にしても、実が黒っぽいところから命名されたものである。なお中国でも「烏麦」と称しているので、黒いと認識されていたことがわかる。
ということで、鎌倉時代までは「そばむぎ」と呼ばれていたが、室町時代の『下学集』という辞書に「喬麦(そば)」と掲載されており、その頃から略称で「そば」と称されるようになったらしい。とここまで調べてきて、室町時代までの蕎麦が、現在のような麺ではなかったことを知って驚いた。麺でない蕎麦など想像もできないからである。もちろん現在でも「そばがき」「そば餅」「そば団子」として食べられているが、蕎麦は麵が主流である。その麺として食べられるようになったのは江戸時代以降であり、長い蕎麦の歴史の中ではごく最近になってからのことだった。
小麦粉をこねたうどんは、かなり早くから麺として食されていた。一方の蕎麦はようやく江戸時代になってから麺に生まれ変わった。一説によると、寛永頃に朝鮮から来た僧侶によって、つなぎに小麦粉を使うことが伝授され、ようやく今のような麺を作ることができるようになったといわれている。蕎麦は麦の一種と考えられていたが、小麦粉に多く含まれるグルテンがほとんど含まれていないので、そば粉だけでは麺にすることが難しかったのである。ということで蕎麦を麺にしたのは、韓国の方がずっと早かったようだ。
こうして江戸時代になって、蕎麦は麺として急速に普及していった。当時「そば切り」と呼ばれたのは、包丁で麺状に切っていたからである(初出は『慈性日記』慶長十九年二月三日条)この「そば切り」はサッと食べられることから、江戸の文化として屋台で広まった。ところが火事の原因になるという理由で禁止されたことで、店舗としての蕎麦屋が爆発的に増加していった。その頃、江戸市中には三七六〇軒もの蕎麦屋があったとのことである。麺としての蕎麦は、江戸の文化だったのである。