🗓 2025年06月07日

吉海 直人

みなさん「源氏香」はご存じですよね。これには大きく二つの意味があります。一つは、香道における「組香」の一種というか、主流となっているものです。五種類の香を五袋ずつ計二十五袋準備し、そこから任意に五袋を取り出し、その香を各一回計五回焚いて、それぞれの匂いを嗅ぎ分けるという優雅な遊びです。ただし何の「香」を焚いているのか、その名称を当てるゲームではありません。単に同じ匂いか違う匂いかを嗅ぎ分けるものです。具体的には五種類とも同じ匂いの場合もあるし、逆に五種類とも異なる場合もありえます。
 なお香道では、香の匂いを「嗅ぐ」といわず、あえて「聞く」といっているようですが、平安時代にこの訓読は確認できません。というより、中世の作品では「聞」という漢字を「かぐ」と読んでいる例があるので、両方の読みがあったと考えるべきでしょう。逆に本居宣長など、「香」は「嗅ぐ」というのが雅言で、「聞く」は漢言だとまでいっています(『玉勝間』)。むしろ「聞く」は後から付け加えられた香道用語の可能性が高いのです。
 さて五種類の「香」を嗅いだ後、その結果を紙に書き出します。紙に縦棒を右から左に五本引き、右から順に初炉~五炉とし、違う匂いものはそのまま、同じ匂いだと思ったら横棒でつなぐという単純なものです。みんな違っていれば縦棒五本のままで、みんな同じなら縦棒がすべて一本の横棒で連結されます。二つ同じ(トランプのツーペア)などの場合、横棒が交差することもあります。
 数学の順列組合せを使ってこれを計算すると、全部で五十二通りになります(1)。それを『源氏物語』五十四帖にあてはめると、どうしても二帖分足りません。そこで最初の桐壺巻と最後の夢浮橋巻を除外し、帚木巻から手習巻までにその記号をあてはめることで、優雅な「源氏香」の模様(コード)が誕生しました。もちろん参加者は、巻名を諳んじていなくても、巻名の書かれた一覧表か冊子で確認すればそれで問題ありません。
 ではこの「源氏香」は、一体いつ誰が考案したのでしょうか。一説には三条西実隆だといわれ、また後水尾院ともいわれています。近衛政家の『後法興院記』の明応十年(一五〇一年)二月七日条に、「一昨日之源氏香之勝負」とあることを重視すれば、三条西実隆の活躍時期とぴったり合致しています。「香道」の流派に三條西家の御家流があることも首肯できますね。
 もっとも香道は単独で成立したのではなく、足利義政が築き上げた東山文化の一環として、複合的に成立したものです。その流れを汲む武家の志野流も存在します。もちろん「源氏香」は「組香」の一つなので、他に三種香・四種香もあれば、六種香なども存します。ただしこういったやり方は、平安時代には一切存在していません。「香道」は作法を重んじる芸道として成立しているのであり、『源氏物語』の「薫物」とは根本的に違っていることをご理解ください。というより、『源氏物語』にそういった遊びは存在していません。ということで、「香道」から『源氏物語』の読みは深まりそうもありません。
 もう一つは「香道」そのものではなく、デザイン(文様)としての「源氏香之図」です。帚木巻から手習巻までの「源氏香」の記号が、『源氏物語』への憧憬と相俟って、意匠としてさまざまなところで活用されたからです。たとえば着物の柄とか工芸品、あるいは浮世絵・源氏かるたなどに描かれています(和菓子にも使われています)。それだけでなく、『源氏物語』の究極のダイジェスト版として、「源氏香之図」と「巻名和歌」が融合・合体され、そこに巻名に因む簡単な絵(場面絵や趣意絵)が添えられています。趣意絵というのは物語を象徴する絵で、桐壺ならば桐、若紫ならば雀などが描かれています。
 もっとも多いのは、版本の頭書に掲載されたものでしょう。全体の分量が少ないので、特に百人一首の絵入版本の頭書には、たいてい「源氏香之図」が掲載されています。その版種は優に五百を超えています。ただし時代が下ると徐々に取り扱いが雑になり、いつしか桐壺巻・夢浮橋巻にも「源氏香之図」が付けられたりしています。もちろんもともと五十二通りしかないのですから、よく見ると必ず他の巻の香図と重複しているはずです。
 要するに「源氏香之図」(源氏模様)はあくまで意匠であり、『源氏物語』とはまったく無縁の記号なのです。仮に紫式部がこれを見ても、そこから『源氏物語』を想起することはありません。それに対して江戸時代以降の人々は、この巻名のついた記号によって『源氏物語』を身近に感じていました。これは『源氏物語』からは離れた、『源氏物語』を読まない『源氏物語』の文化史的享受〈もう一つの『源氏物語』〉だといえます。
〔 注 〕
(1)数学的なことは矢野環氏「源氏香⑴有限集合の分割」数学セミナー・平成7年11月、同「源氏香(2)有限集合の分割」平成7年12月を参照してください。