🗓 2025年10月18日

吉海 直人

最初に質問です。上の句の「草臥て」、さてなんと読みますか。もちろん「くさふして」ではありません。これで「くたびれて」あるいは「くたぶれて」と読みます。もっとも、初出とされている中国『詩経』の「草臥」はそのまま疲れて草に臥すことですから、意味は違っていません。ここでは読みを尋ねてみただけです。
 この「くたびれる」の語源は、「朽つ」「腐たす」から派生したものとされています。「びる」はその状態になることです。似た言葉として「くたくた」は、疲れ果てた状態、あるいは使い古してぼろぼろになった意味ですね。この句の場合は、歩き疲れてくたくたになったのでしょう。これは歌語のイメージではなく、俳句ならではのものだといえます。
 ところでこの句は『笈の小文』という作品に出ています。これは芭蕉が貞亨4年(元禄元年)10月、四度目に伊賀へ帰郷した際に作られた句を集めたものです。その行程は江戸から尾張(愛知県)・伊賀(三重県)・伊勢(三重県)・大和(奈良県)・紀伊(和歌山県)と回り、さらに須磨・明石(兵庫県)にまで及んでいます。ただし芭蕉自身がまとめたものではありません。芭蕉の死後に、門人の川井乙州が芭蕉の真蹟短冊や書簡などを集めてまとめたものとされています。
 この句はその道中の元禄元年4月11日にあります。『笈の小文』には「道中」という項目の中に、

旅の具多きは道ざはりなりと、物皆払捨たれども、夜の料にと、かみこ壱つ、合羽やうの物、硯、筆、かみ、薬等、昼餉なんど物に包て、後に背負たれば、いとヾすねよはく、力なき身の跡ざまにひかふるやうにて 、道猶すゝまず、たゞ物うき事のみ多し。
   草臥て宿かる比や藤の花

と出ています。大和八木に宿泊しようとした際に作られたもののようです。

しかしながら、この句の解説はこれだけでは済みそうもありません。というのも、この句は最初、

ほととぎす宿かる頃の藤の花

と詠まれたことがわかっているからです。初句は「草臥れて」ではなく「ほととぎす」だったのです。そのことは『惣七(猿雖)宛』の芭蕉の書簡(元禄元年4月25日附)に、

大和行脚のとき、丹波市とかやいふ処にて、日の暮れかかりけるを、藤の花おぼつかなく咲きこぼれけるを、

という前書きを伴って書き留められています。丹波市(たんばいち)というのは、今の天理市のことです。

同様のことは、芭蕉の門人である服部土芳がまとめた『三冊子(さんぞうし)』にも、「ほととぎす宿借るころや藤の花」という形で掲載されています。これがオリジナルだったのです。
 芭蕉が「ほととぎす」と詠んだのは、芭蕉が好きだった素性法師が、「奈良の石上寺にて郭公の鳴くを詠める」という詞書で、

いそのかみ古き都のほととぎす声ばかりこそ昔なりけれ(古今集144番)

と詠んでおり、それを踏まえて詠んだ句だからといわれています。といっても、この歌に「宿かる」「藤の花」という情報は含まれていません。共通しているのは「ほととぎす」だけです。しかもその「ほととぎす」は、推敲の過程で「草臥れて」に変更されているのですから、素性歌との距離はもっと遠くなります。それよりは、

わが宿の池の藤波咲きにけり山ほととぎすいつか来鳴かむ(古今集135番)

歌の方が、「宿」「藤」「ほととぎす」が含まれている分、近いといえます。

では芭蕉は、何故「ほととぎす」を「草臥れて」と推敲したのでしょうか。それは「ほととぎす」と「藤の花」が季語として重なっていることによるのかもしれません。どちらを残すか消すかということで、最終的に「藤の花」が残され「ほととぎす」が削られました。これで聴覚情報はなくなりました。その代わり「草臥れて」「宿かる」が旅の句として効果的に結びついたのです。「藤の花」との関りも見事ですね。