🗓 2025年09月20日

吉海 直人

一緒に考えてみてください。仮に『枕草子』初段の表記が「春は曙…」と漢字で書かれていたら、みなさんはこの「曙」をどう読みますか。まさか「しょ」と音読みする人はいませんよね。そうなるとほとんどの人は、無意識に「あけぼの」と読むかと思います。現代においてはそれで正解です。何の問題もありません。ところがこれを平安時代にまで遡って訓読するとしたらどうでしょうか。
 現代では正解とされている「あけぼの」は、おそらく不正解として却下されることになりそうです。信じがたいことかもしれませんが、平安時代の古辞書類を調べても、「曙」が「あけぼの」と訓読された例が見つからないのです。平安時代どころか鎌倉時代にも見つかりません。逆に「あけぼの」を「曙」と表記した例もなさそうです。では当時はこれを何と読んでいたのかでしょうか。もっとも有力なのは「あかつき」でした。他に「あく」「あさぼらけ」という読みもあります。ここまで来ると訓読云々だけの問題ではなくなります。「曙」の訓である「あかつき」・「あさぼらけ」・「あけぼの」の三つは、時間表現として重なりを有していることになるからです。
 そこで試しに、『枕草子』初段を「はるはあかつき」と口にしてみると、妙な違和感がありますね。では「あけぼの」を「あかつき」に置き換えた場合、一体どのような意味の違いが生じるのでしょうか。共に明け方を指す時間用語ですから、時間帯が大きく動くことはありません。
 もっともかつての研究では、「あかつき」の後に「あけぼの」が来ると時系列的にとらえられていました。暗い時間帯の「あかつき」から、薄明るい時間帯の「あけぼの」へと時間が進行すると信じられていたのです。ところが最近、急速に時間表現の研究が進んだことで、時間のとらえ方が大きく見直されつつあります。縦軸に置かれていた「あかつき」と「あけぼの」は、あらためて重なりを有する時間帯として横並びにされつつあります。その上で、「あかつき」は聴覚表現と共起することが多く、「あけぼの」は視覚表現と共起することが多いとされています。
 「あかつき」に聴覚表現が用いられるのは、その時間帯がまだ暗いからです。それに対して「あけぼの」は、視覚が通用するほどの薄明るさということで、これまではそう説明されてきたのでしょう。それだと以前の時系列的な説明の方がむしろわかりやすいことになります。これを横軸にしたのは、「あかつき」が案外長い時間帯をカバーしているからです。基本は午前三時から五時までの二時間です。その「あかつき」の後半が「あけぼの」と見なされているのです。これなら確かに重なっていますよね。
 今後は暗い時間帯の「あけぼの」も許容されることになりそうです。もちろんそれだけではありません。かつて「しののめ」と「あけぼの」の違いについて、それを意味の違いとしてではなく、「しののめ」は歌語で「あけぼの」は非歌語(歌に読み込まれない語)と説明されたことがあります。これを援用すると、「あかつき」は歌語で「あけぼの」は非歌語としてもよさそうです。少なくとも『源氏物語』や和泉式部によって「あけぼの」が歌に読まれる以前は、その説明で間違ってはいなかったからです。
 付け加えるとすれば、「あかつき」の用例はたくさんありますが、「あけぼの」の用例は数えるほどしかないことも特徴としてあげられます。非歌語云々の問題ではなかったのです。なお歌に詠まれる場合、『枕草子』初段のインパクトが強烈だったこともあってか、『源氏物語』『和泉式部続集』など初期の歌は、ほぼ「春のあけぼの」として詠まれています。それに対して歌語のはずの「あかつき」は、『万葉集』でも勅撰三代集でも「春のあかつき」とは詠まれていません。もっとも漢詩としてなら、孟浩然の「春暁」が有名ですよね。
 そう考えると、どうやら「あかつき」ではできなかった表現の溝を、「春のあけぼの」が埋めていることになります。「春」と「あけぼの」はそれだけ結びつきの強い表現なのです。ということで「あけぼの」と「曙」は、単に仮名か漢字かの違いだけではないこと、おわかりいただけましたか。それを踏まえて最初に戻ると、『枕草子』の初段冒頭は「春はあけぼの」でなければならないことになります。安易に漢字を当てることは断じて許されません。
 (参考文献)篠原美夏氏「「春曙」題の始点と展開―「曙」と「あけぼの」の関係から―」詞林75・令和6年4月