🗓 2025年09月27日

吉海 直人

みなさんは「牡丹」から何を連想しますか。美人のたとえですか。花をめでる人なら、長谷寺の牡丹が思い浮かぶかもしれません。花よりも食欲のある人は、「牡丹餅」「牡丹鍋」ですね。お酒の銘柄に「はく牡丹」「司牡丹」もあります。俳句好きの人なら、与謝蕪村の「牡丹散り(っ)て打ち重なりぬ二三片」という句が口をついて出るでしょう。落語好きの人だったら怪談「牡丹灯籠」もあります。老婆心ながら、洋服に付けるぼたんはポルトガル語由来のもので、決して牡丹の花に似ているから命名されたというわけではありません。
 ごく少数かもしれませんが、仁侠映画が好きな人は、高倉健あるいは藤純子(緋牡丹お竜)を想起することでしょう。高倉健の「唐獅子牡丹」(昭和残侠伝シリーズ)は、東映映画で主題歌とともに大ヒットしました。この唐獅子と牡丹は、百獣の王と百花の王という絶妙の取り合わせということで、絵画や彫刻などの題材ともなっています。左甚五郎作とされる南禅寺方丈の欄間の透かし彫りは、「竹に虎」と並んで有名です。
 それとは別に、花札に「牡丹に蝶」の図柄があるのはご存じですよね。これは六月札の役札です。この札は、花札をよく知っているかどうかを試すメルクマールとしても機能しています。札に書かれている二匹の蝶は上にあるのが正しいのか、下にあるのが正しいのかわかりますか。これは札に赤い雲があることに注目して下さい。この赤い雲は役札であることを示す印なのですが、これが上にくるように置くのが正しい置き方になります。当然蝶は下向きになります。
 さて牡丹と蝶の取り合わせですが、本場中国にはこの絵画資料が見当たりません。古い牡丹の絵に蝶は描かれていないのです。ですからこれは日本で組み合わされた可能性があります。葛飾北斎の絵は有名です。もっとも中国の『荘子』に、荘周が夢で胡蝶となったという故事があるので、それが下敷きになって描かれているとも考えられます。その話が日本に伝来した後、同じく中国伝来の牡丹と合体させられたのではないでしょうか。あるいは白楽天の漢詩「牡丹芳」に蝶が出ているので、これが出典なのかもしれません。たとえそうであっても、これは日本で創作された中国趣味の構図ということになります。
 では牡丹は、いつごろ日本に伝来したのでしょうか。伝承では、あの空海が持ち帰ったとされています。おそらく平安時代初期に、遣唐使(遣唐僧)によってもたらされたのでしょう。もちろんそれは花が美しかったからではありません。牡丹が鎮痛消炎効果を有する薬草(漢方薬)だったからです。
 驚かれるかもしれませんが、かつて日本では大輪の花は美的なものとはされていませんでした。そのため『万葉集』や『古今集』以下の勅撰集に牡丹は歌われていません。『蜻蛉日記』中巻の鳴滝詣でに、「牡丹草どもいと情けなげにて、花散りはてて立てる」とあるのが初出でしょうか。次に『枕草子』137段「殿などのおはしまさで後」に、「台の前に植ゑられたりける牡丹などの、をかしき事」とあり、ようやく美的に描かれています。それでも『源氏物語』には引用されていないので、美として確立していたとはいえそうもありません。
 勅撰集の初出は下って『詞花集』とされていますが、詞書に「牡丹」とあるものの、「咲きしより散りはつるまで見し程に花のもとにて二十日経にけり」(48番)とあって、歌に牡丹は詠まれていません。次の『千載集』に至って、ようやく「人知れず思ふ心は深見草花咲きてこそ色に出でけれ」(683番)と「深見草」として歌われています。平安時代において牡丹は非歌語であり、歌に詠む時は「深見草」という別称(歌語)が用いられていたのです。
 室町時代成立の謡曲「石橋しゃっきょう」は、牡丹を作品の中に取り入れた古いものの一つです。牡丹がようやく一般化したのは遅れて江戸時代以降であり、盛んに品種の改良が行なわれました。それが花札や俳句の土壌となっているのです。