🗓 2025年10月28日
吉海直人
最近は普通にスーパーで求められる「アスパラガス」ですが、その起源はヨーロッパにありました。なんと古代ギリシャやローマ時代には、すでにアスパラガスが食べられていたとされています。
それが日本に伝来したのは、鎖国政策をとっていた江戸時代後期のことでした。鎖国中も交易していたオランダ人が、長崎の出島にもたらしたのです。ただしイチゴと同様、当時は食用ではなく観賞用だったそうです。
それが食用として栽培されるようになったのは、一般には明治時代に北海道開拓使がアメリカから導入したことから始まったとされています。ところが北海道よりずっと早く、東京で「アスパラガス」の栽培を行った人がいました。それは福沢諭吉と一緒にアメリカに留学した経験のある津田仙です(津田梅子の父)。
津田は帰国後アメリカから野菜の苗や果物の種子を輸入し、栽培を始めていたのです。最初はとうもろこしだったようですが、続いて明治4年には「アスパラガス」も栽培しています。そして明治8年には学農社を開業させ、西洋野菜の苗や種を積極的に通信販売しています。これが日本にける通信販売の始まりでした。
その一年後の明治9年に、津田仙新島襄に宛てた手紙(送り状)が、同志社大学の新島遺品庫に保管されています(目録番号0658)。それを見ると、手紙の日付は4月1日になっていました。その年の1月に襄と八重は結婚していますから、あるいはこれは結婚祝いだったかもしれません。なお津田仙に関しては、前に「カタルパ」のコラムで触れています。
送り状を見ると、最初に「送状之事」とあって、次に目録風に、
一、梨苗 弐拾本
一、ストロウベルリー苗 弐種伍十本
一、アスペラグス苗 拾本
一、西洋種物 五種
と記されています(住所は西京新烏丸頭町四十番地)。最初にある「平菓」は「苹菓」(リンゴ)の別称です。リンゴにしても北海道から始まったとされていますが、実は津田の方がずっと早かったのです。もっとも津田は開拓使の嘱託をしていたので、北海道の動向と無縁ではなかったのかもしれません。
ここで送られてきた苗や種が新島旧邸に植えられたのでしょう。襄にとってはアメリカで食べた懐かしい野菜でした。一方の八重にとっては初めてみる野菜や果物だったに違いありません。もしこの「アスパラガス」の苗がうまく育ったとしたら、新島夫妻は京都で最初に「アスパラガス」を栽培した人、さらには京都で最初に日本産の「アスパラガス」を食した人ということになりそうです。
ところで「アスパラガス」の和名は「オランダキジカクシ」です。葉が繁茂してキジを隠してしまうという意味です。それとは別に津田自身は、「アスパラガス」が日本のうどに似ていたことから、「松葉うど」という和名を使用していました。津田が命名者かどうかわかりませんが、少なくとも「松葉うど」という名称を広めた人であることに間違いはありません。
なお九州生まれの私にとって、「アスパラガス」は缶詰に入った白っぽい棒状のものでした。というのも日本で主流だったのは、欧米への輸出用として缶詰に加工された「ホワイトアスパラガス」だったからです。私が緑色の新鮮な「グリーンアスパラガス」を生で食べたのは、大人になってからでした。そんな私ですから、「アスパラガス」は北海道産だと決めつけていました。ところが岩澤さんから会津産の「アスパラガス」を送ってもらって認識を改めることになりました。なんと福島県は「アスパラガス」の産地として有名だったのです。調べてみると福島県は、「アスパラガス」の作付面積が2024年には全国第8位でした。しかもその90%が会津産だったのです。
新島八重のことから会津若松と縁を結んだ私ですが、驚いたことにその縁が「アスパラガス」にまで広がりました。会津のみなさんも「アスパラガス」と八重のつながりを是非知ってくださいね。また会津産の「アスパラガス」を食べたくなってきました。
