🗓 2025年06月17日
吉海直人
NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映されたことで、大龍寺は一躍有名になりました(綾瀬はるかさんも訪れています)。特に住職夫人・増子宮子さんの笑顔とウィットに富んだ話術は、訪れた人たちの心を和ませ癒してくれます。私も初めて訪れた際、見ず知らずであったにもかかわらず、大変親切にもてなしていただき、いっぺんで大龍寺が好きになりました。
「八重の桜」はあっという間に終わってしまいましたが、私と会津との縁はその後もずっと続いています。というのも大河ドラマを契機として、同志社女子大学の学生部が毎年夏に会津若松を訪れるツアーを開催したからです。ということで私は京都から女子学生を引率して何度となく大龍寺にもお邪魔したのですが、そのたびに笑顔と手料理をふるまってくださるので、すっかりそれに甘えてしまっています。
また会津若松在住の岩澤信千代さんが新島八重顕彰会を立ち上げたことで、八重の命日である6月14日には、毎年顕彰祭が大龍寺で開催されることになりました(今年が6回目でした)。
この顕彰祭は単なる法要ではありません。仏式の法要とキリスト教式の記念式が一緒に行われる珍しいものです。というのも、新島八重がクリスチャンだったからです。大龍寺の増子大道住職の太っ腹で、それが可能になりました。最初に住職の読経があり、それに続いて焼香を行います。その後、山下勝弘牧師(山下智子先生の父君)の司式で追悼の記念式が行われます。その際、大龍寺の本堂で讃美歌が歌われるのですから、きっと初めて見た人は驚くことでしょう。でもこの宗教を超えた二本立てこそは、新島八重顕彰祭にもっともふさわしい形式だと思っています。
さて、私が大龍寺を訪れたのは、もちろん八重とのかかわりが深い場所だからです。私が訪れたかったのは、大龍寺の墓地の方でした。そこに八重が建立した「山本家之墓所」という立派な記念碑があります。その碑名は、八重自らが揮毫したものをそのまま彫り込んだものです。それから90年以上も経過しているので、裏面の文字が風化して読みにくくなっていますが、石碑の裏には「昭和六年九月合葬山本権八女京都住新島八重子建之八十七才」と刻まれています。
ただしこれは山本家の墓石ではありません。誤解しないようにしてください。これはあくまでここが山本家代々の墓所であることを示す記念碑です。「合葬」というのは、山本家の墓を整理して1ヶ所にまとめたという意味です。ですからその側にある墓石を見ると、山本某と記されています。ただしそこに八重の両親・兄弟の墓はありません。もちろん八重の墓もありません。八重たちは京都の若王子にある同志社墓地に眠っているからです。
なお昭和6年というのは、八重が亡くなる一年前のことでした。「八十七才」というのは数えであり、満でいうと85才になります。この時、山本家は相続人が途絶えていました。兄覚馬も母佐久も、そして覚馬の娘みねも久栄も既に亡くなっています。唯一、みねの一人息子横井平馬が山本家を相続していましたが、どうもその頃には消息が不明になっていたようです。八重は新島へ嫁いだ身でした。それにもかかわらず、「山本権八女」という肩書きで墓所を整理し、石碑を建立しているのです。おそらく八重は自らの死期も自覚していたに違いありません。今元気なうちにやっておかなければ、この先山本家の墓は所在不明になってしまうか、あるいは散佚してしまう恐れがあったのです。八重自身、これ以後墓参りに訪れることはもはやできないと覚悟していたのでしょう。
もう一つ誤解されているのは、墓碑に昭和六年九月とあるのだから、その時八重は会津を訪れていたと思われていることです。実はその頃八重は重い病を患っており、到底外出できるような健康状態ではありませんでした。ということで、八重は前年の昭和五年に会津を訪れ、墓碑建立の依頼をしていたのでした。
八重が石碑を建立してくれたお陰で、私も大龍寺を訪れてお参りすることができました。その縁で、八重顕彰祭が大龍寺で行なわれているのです。そこで大龍寺のことも少し知っておきたいと思った次第です。大龍寺でもっとも目立つのは、小笠原流礼法の祖・小笠原長時の墓です。寛永20年に保科正之が会津に移封された際、機外禅師が桂山寺を拝領して、そこに新たに宝雲山大龍寺(臨済宗妙心寺派)を開山しました。その桂山寺にもともとあったのが長時の墓だったのです。長時は蘆名盛氏の客分として会津にいましたが、会津藩の坂西勝三郎に切り殺されたとのことです。その他に保科正之の家臣で、和算家で暦学者の安藤有益(映画「天地明察」に登場しています)の墓(雄岳全機居士)もここにあります。
下って戊辰戦争の際、大龍寺の境内は新政府軍の野戦病院として利用されました。城から遠くにあったために戦禍から免れたのです。ですから現在の本堂は、江戸時代初期に造営された大変古いものです。この大龍寺の見どころの一つは、何といっても庭園でしょう。元禄9年に御薬園を作庭した目黒浄定によって作庭された遠州流の庭園です。庭内には京都の高雄・嵐山から移植された見事な「大龍寺のかえで」もあります。
なお境内ではクジャクも飼われており、うるさいほどによく鳴きます。また大龍寺には猫もいますが、「八重の桜」の後で飼われた犬は「七五三太」(新島襄の本名)と名付けられています。みなさんも是非顕彰祭に参加してみませんか。そしてできることなら、新島八重顕彰会の会員になって大龍寺に集いましょう。