🗓 2025年05月15日

吉海直人

 かつて同志社では、新島襄の幼名は「七五三太(しめた)」だったと、まことしやかに語られていた。その名前の由来は、待望の長男誕生に祖父弁治が思わず「しめた!」と叫んだというエピソードとして、複数の新島襄の伝記に必ず照会されていた。今でこそ「七五三太は幼名」という言説はほとんど語られなくなっているが、それでもどこかで未だに繰り返されているのではないだろうか。

例えば同志社一貫教育委員会がネットに掲載している「新島襄の生涯」には、

新島襄は一八四三年二月十二日(旧暦一月十四日)、江戸の神田にあった安中藩江戸屋敷に生まれました。四人姉妹に続く長男だったので、家族は跡取り息子として大変喜びました。幼名は七五三太で、その由来には二つの説があります。一つは一月十四日が正月の松の内の期間内で家にしめ縄が飾られていたので七五三太と名づけられたというもの。もう一つは祖父弁治が喜びのあまり「しめた」と叫んだことから名づけられたというものです。

と説明されている。これは現在も変更されていないようである。

私も最初はこれを信じていた。そのことに不審を抱くようになったのは、ずっと後になってからである。そのきっかけは、NHK大河ドラマ「八重の桜」の関連で、川崎尚之助の裁判記録を閲覧するために札幌の文書館へ赴いた時である。かつて函館には開拓使という役所があり、当時の公文録が大量に保管されていた。それが現在は札幌の北海道立文書館に移されている。そこで川崎尚之助の資料を調べるために札幌まで出向いたのだが、そのついでにネットの目録で新島襄を検索したところ、何枚か新島襄の資料が綴じてあったのだ。

それによれば開拓使長官の黒田清隆が、アメリカにいた新島襄を官費留学生にして奨学金を支給し、帰国後に開拓使で雇おうとしていたことが記されていた。もちろん新島襄はハーディから金銭的に援助を受けていたので、奨学金をもらう必要はなかったのだが、帰国に際しての正式な旅券と、日本国籍の回復は必要だった。

その書類を見ると、名前欄に「新島七五三太」と書かれていたのである。国家が発行する旅券に幼名を書くはずはないので、これこそ新島の本名であることの証明になると確信した。逆に言えば、その時点で「新島襄」という名前は戸籍には記載されていなかったことになる。それがいつから「襄」になったのかというと、おそらくは同志社英学校設立のため、戸籍を安中から京都に移した際、身分を士族から平民に変更しただけでなく、「七五三太」を「襄」に改名したのではないだろうか。

もちろんワイルド・ローヴァー号のテイラー船長から「ジョー」と呼ばれていたようだが、それは本名とは無縁のニックネームでしかない。アメリカに渡ってハーディの世話を受けていた時、新島は自ら「ジョセフ・ハーディ・ニイシマ」と自称していた。これはクリスチャン・ネームであろう。ミドルネームにハーディとあるのは、ハーディの養子格だったからといってもおかしくあるまい。その「ジョセフ」を、日本に帰国した後で「襄(ジョー)」という漢字に置き換えたというわけである。

要するに「新島襄」は、同志社英学校の創立に伴うものであったのだ。それ以前は幼名ではなく本名が「七五三太」であったことを認識していただきたい。今のところ「七五三太」を幼名とするものと本名とするものは五分五分のようだが、早急に「七五三太は本名」とする説が優勢になることを願っている(既にウィキペディアは本名になっている)。