🗓 2025年12月26日

同志社女子大学名誉教授 吉海直人

1同志社の創立者は三人!

同志社の創立者は誰?と質問されたら、即座に「新島襄」と答える人がほとんどであろう。そう教わってきたのだから当然である。だから最近になって新島が単独で創立したのではなく、新島と山本覚馬とデイヴィスの三人が力を合わせて創立したといわれても、違和感を抱く人が多いに違いない。もちろんラットランドにおいて、新島は日本にキリスト教の学校を作りたいと訴えて寄付金を得た。しかしだからといって、それですんなり学校が作れるほど甘いものではない。その証拠に、新島は大阪に学校を作ろうとして、キリスト教嫌いの知事から反対され、失敗しているではないか。

ではどうして京都では成功したのだろうか。それは京都にキリスト教の思想を理解していた覚馬がいたからに他ならない。その覚馬が京都府の槇村に働きかけ、新島と組んで結社人として連名で私塾開業願を提出している。さらに学校の敷地を格安で提供してくれたからこそ作れたのである。盲目かつ体の不自由な覚馬ではあるが、ある意味では同志社創立最大の功労者である。新島が学校を作ったというのであれば、覚馬は新島に学校を作らせたともいえる。

そしてもう一人、教師としてのデイヴィスの存在も大きかった。デイヴィスは先輩宣教師(新島の上司?)として、既に神戸で英学校と女学校を立ち上げていた。そのデイヴィスが同志社英学校の教師として授業を担当していなければ、到底新島一人で学校運営などできるはずはなかったからである。むしろ実質上はデイヴィスの方が校長としてふさわしいくらいだ。少なくともデイヴィスという教師なくして、英学校は成り立たなかったはずである。

新島研究者の故北垣宗治先生は、この三人の誰か一人でも欠けたら、同志社は創立できなかったと断言しておられる。従来はどうしても校祖新島にウエイトが置かれていたので、新島を二人が助けた、つまり新島が主で他の二人は従あるいは副として語られてきた。それが主従ではなくようやく同格として認識されつつあるのである。

考えてみればわかりそうなものである。一体、新島に学校を作ったり授業をした経験があるだろうか。京都に知り合いがいるわけでもなく住んだこともない新島に、学校用の土地や建物を確保することができたであろうか。こういったことはすべて覚馬がお膳立てしてくれたのではないか。というより、新島は覚馬の家に居候させてもらっていたではないか。学校運営の表舞台には出ないかもしれないが、覚馬は単なる助力者をはるかに超えた存在であった(理事長)。

ということで、これまでは新島の作った学校として語られてきたことを反省して、これからは新島と覚馬とデイヴィスの三人が協力して同志社を創立したと説明すべきであろう。特にこれまで埋もれていた山本覚馬の京都における重要性について、もっと再確認していただきたい。キリスト教の学校を京都に作らせた功労者として、山本覚馬の名を忘れてはなるまい。

 

2同志社経営のからくり

学校経営で一番お金がかかるのは人件費である。だから教師の数と学生の数のバランスが大事なのである。最近は18歳人口の減少により、撤退する大学が増えてきた。現在日本には国公立私立含めて800もの大学があるが、その半数では既に定員割れを起こしている。女子大学はもっと深刻であり、7割以上の大学が定員割れとなっている。そのため多くの大学は授業料収入をあてにせず、資金運用の利益によって赤字を補填している。それなりの資金を有している大学ほど安泰ということである。

では同志社が創立された頃はどうだったのだろうか。これに関してはNHKEテレで2023年11月20日(月)の午後7時半から「偉人の年収Howmuch?ハンサムウーマン新島八重」が放送された。もっとも八重は偉人ではないし、年収といっても女紅場で働いた経験くらいしかないので、どうもピンとこなかった。むしろ八重の生活は夫の新島の給料で成り立っていたはずなので、新島の給料について考えてみたい。

同志社英学校が開校した初年度、入学生の数は8人であった。彼らが収める授業料はたかが知れているから、それで新島やデイヴィスの給料が賄われることは不可能である。それは女学校も同様であった。最初の生徒数は12名であるから、その授業料ではスタークウェザーの生活など賄えるはずもなかろう。しかしながら宣教師たちが貧乏だったという話は聞いたことがない。

では新島たちはどうやって生活費を得ていたのであろうか。その答えは明快である。アメリカン・ボードの宣教師として派遣されていたので、給料はアメリカンボードから送金されていたのである。デイヴィスのような宣教師は年俸1200ドル(ほぼ1200円)、新島は準宣教師なので年俸800ドル、スタークウェザーのような女性宣教師は年俸600ドル(男性の半額)であった。もちろんそれ以前に学校の敷地や建物などもすべてアメリカン・ボードのお金であるから、間違いなく同志社はアメリカン・ボードの学校だったのである。資金をもらう以上、定期的に報告書を提出して了承を得ることを義務付けられている。それが膨大な宣教師文書である。

もともと新島はラットランドの総会で、日本にキリスト教の学校を作らせてほしいと訴えて寄付金を集めたのだから、単なる英学校を作るはずはなかろう。同志社は間違いなくアメリカン・ボードの経営するトレーニング・スクールだったのである。だからこそアメリカの資金が使えたのだ。新島の邸にしてもアメリカの資金で建てられたものである。そのことに新島は何ら負い目など抱いていない。

しばらくして熊本バンドの学生たちが同志社の教師として勤めることになるが、彼らの給料は学生の授業料から支給されることになる。もちろん学生数はかなり増えているものの、彼らの給料は月に15円程度であった。年俸にすると180円になる。新島と比較すると、いかに低賃金で働いていたかは一目瞭然であろう。

実のところ新島たち宣教師は、学校の教師としては無給で働いていた。要するに単なる英語の教師ではなく、学校を通してキリスト教の信者を増やすこと、さらには日本人の牧師を養成することを目的として派遣されていたのである。新島の死後、日本人教師たちによってその体制が批判され、日本人主体の学校経営に変えられていった。それが現在の同志社なのである。

今の同志社はキリスト教主義の学校ということになっている。というより学校が大きくなるにつれ、クリスチャン率は低下し、普通の私立大学とほとんど変わらなくなっている。果たして150周年を迎えた同志社を見て、新島襄は喜んでくれるだろうか。あるいは新島の目論見とは違っているものの、今の同志社こそは新島精神を受け継ぐ学校であると胸を張っていえるだろうか。