🗓 2025年11月01日

吉海 直人

平井康三郎は「平城山」を作曲した人として有名です。その平井が昭和10年12月に岩手県前沢に招かれました。その際、主催者の太田氏から、郷土の偉人・石川啄木の歌を演奏したいと懇願されたそうです。そこで平井は岩手に向かう夜行列車の中で、急遽啄木の歌集『一握の砂』から「ふるさと」を詠んだ、

ふるさとの山に向かひていふことなしふるさとの山はありがたきかな(一番)
やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに(二番)

の二首を撰び、一晩で曲を書き上げました。翌日、前沢に到着した平井は、会場に設置されていたピアノで、無事できたての「ふるさとの」を演奏したそうです。これが「ふるさとの」曲誕生秘話です。

なお啄木は、第一歌集『一握の砂』(明治43年刊)の中に「ふるさと」を題材にした歌をたくさん詠んでいます。それはかつて啄木が、

石をもて追わるるごとくふるさとを出し悲しみ消ゆるときなし

と「ふるさと」を追われていたからでしょう。だからこそ、啄木にとって「ふるさと」の渋民村は、

かにかくに渋民村は恋しかり思い出の山思い出の川

と恋しく思いだされるに違いありません。

ところで一番の歌詞で特徴的なのは、「ふるさとの山」が繰り返されていることです。それは当然「ふるさとの山」を強調していることにもなります。ただしそれがどこの山なのかは語られていません。では啄木の歌う「ふるさとの山」とは一体どの山なのでしょうか。もちろん啄木が慕ってやまない「ふるさとの山」は、岩手県の最高峰である岩手山以外には考えられません。
 しかもこれを二番と重ね合わせると、啄木は北上川の岸辺に立って岩手山を望んでいることになります。もっともこれは啄木の解釈ではなく、二首を並べた平井の解釈になりそうです。また二番に「柳あをめる」とあるので、これを一番にも適用すると、啄木は新緑の岩手山を見ていることになります。
 この「やはらかに」歌を耳にすると、私はすぐに正岡子規の、

くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる(明治33年)

歌が頭に浮かびます。ただし啄木は、実際に岩手山も北上川も見てこの歌を詠んでいるわけではありません。ふるさとに帰郷して詠んだのではなく、心の中でふるさとの風景を思い起こし、あたかも眼前の景色のように詠んでいるのです。むしろ啄木にとって「ふるさと」には帰れない、というのが前提ではないでしょうか。その思いは室生犀星の、

ふるさとは遠きにありて思ふものそして悲しくうたふもの

に共通しています。

そういった啄木の思いは、

病のごと思郷のこころ湧く日なり目に青空の煙かなしも

歌では「思郷」(故郷を思う)という表現が用いられています。また、

それとなく郷里のことなど語り出でて秋の夜に焼く餅のにほひかな

では、「郷里」を「くに」と読ませています。啄木にとってのふるさとは、都会にいながら心の中で想起される場所だったのです。

余談ですが、二番「やはらかに」の五句「泣けとごとくに」は、石川さゆりさんが歌って大ヒットした「津軽海峡冬景色」(阿久悠作詞)の「泣けとばかりに」に影を落としているという説もあります。阿久悠さんが亡くなった今、真相はもはやわかりませんが。
 ところで、「ふるさと」といえば、高野辰之作詞・岡野貞一作曲による文部省唱歌の「故郷」の方が有名ですよね。それよりもっと驚かされる曲がありました。それは平井が選定した歌詞をそのまま用いて、新たに新井満が作曲した「ふるさとの山に向かひて」というタイトルの曲が作られていることです。もなさんはご存じでしたか。