🗓 2020年05月02日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

1932年(昭和7年)6月14日午後7時40分、八重は急性胆嚢炎により永眠した。享年86(数えで88歳)であった。その人生を振り返れば、江戸・明治・大正・昭和と移り変わった激動の時代を、右手に『日新館童子訓』、左手に銃から『聖書』に持ち替えて、会津武士の魂とキリスト教の精神で生き抜いた、力強いそして前向きの生涯だった。ただしその比率は、会津魂の方が勝っていたと思われる。
八重の訃報が同志社に届くやいなや、ただちに同志社の臨時理事会が行なわれ、翌15日の納棺式、17日の出棺式・葬儀・埋葬式の次第が決められた。葬儀の告知文には、

新島八重子刀自御儀急病にて本日午後七時四十分御永眠相成候に就いては来る十七日午後一時本社女子部栄光館に於て社葬相営み可申候間此段御通知申上候 敬具
追而供花儀等は一切御辞退申上候 昭和七年六月十四日 同志社総長 大工原銀太郎

と記されている。
 新島邸で厳かに納棺された八重の遺体は、その年完成したばかりの立派な栄光館ファウラーチャペルに運ばれ、そこで同志社葬(キリスト教式)として盛大に行なわれた。急なことにもかかわらず、二千人を超す参列者(会衆)がチャペルを埋めた。葬儀にはたくさんの花が供せられたが、ひときわ目を引いたのは、旧会津藩主・松平家から贈られたものだったという。
 葬儀の喪主は大工原同志社総長が務めた。司会は日野予科長、祈祷は堀貞一宗教主任が担当している。親族代表の席には、八重の養女・初子と夫の広津友信、そして息子の旭が座っていた(当然八重の遺産は遺言に従って広津家が相続している)。そこで歌われた讃美歌は、八重が好きだった讃美歌274番「いつくしみ深き」(現294番)と128番「うつりゆく世にも」(現139番)であった。「いつくしみ深き」は、同名の有名な讃美歌があって間違えやすいが、八重の愛唱歌は現在「みめぐみゆたけき」というタイトルになっている方である。
故人の略歴を読みあげたのは、平安教会の牧師・牧野虎二(後の同志社総長)だった。牧野はその最後を、

刀自の如きは、其の馳すべき馳せ場をあっぱれ走り了せたる者と謂ふべく、今や義の冠は刀自の為に天に備へられあるを信じ、我等は栄へを天父に帰しまつるべきなり。アーメン。

(『追悼集Ⅴ』53頁)

と締めくくっている。続く追悼の説教は、生前に八重から依頼されていた救世軍の山室軍平が担当した。その中で山室は、八重から最後に聞いた言葉として、

もはや大概御用も済んだことと思ひ、召さるる日を待つて居りますが、未だその御声に接しません。

(『追悼集Ⅴ』74頁)

を引用・紹介している。
 弔辞は日本赤十字社社長・徳川家達いえさと氏や京都会津会代表・新城新蔵氏などが述べている。そして最後の挨拶は、同志社の大工原総長と親族代表の広津友信が行なった。
 葬儀が滞りなく執り行われた後、八重のひつぎ若王子にゃくおうじ山頂の同志社墓地まで担ぎあげられ、しめやかに埋葬式が行われた。当日は加藤旭領筆の「新島八重子之墓」という墓標が立てられたが、後日、徳富蘇峰が揮毫した墓石(新嶋八重之墓)に付け替えられている。その蘇峰は、

刀自の存在は、単に新島先生の好配であつた為めばかりではなかつた。刀自は一個の女性としても日本女性の誇りとするに足る一人であつた。

(『追悼集Ⅴ』100頁)

と追悼文に記している。
長年、八重の茶友であった栗田宗近女は、八重が亡くなったことについて、

お友達は、まあ新島八重さんでした。いいお人でした。八十八でくなられたのですが、日頃から夏死んだらこの帯、冬ならこれ、とちゃんと用意してありました。おなくなりになった時は、私ら茶友達がよって、チャンと死化粧をしてあげました。もうそれからは昔のお友達は一人もありません。

(「栗田宗近女」『井口海仙著作集一』244頁)

と寂しそうに語っている。この栗田宗近女が八重の死化粧をしたとあるのは、晩年における茶の存在の大きさを示している。八重の主治医で最期を看取った福田清医師も茶友の一人だった。