🗓 2020年09月21日
皆様は「備中松山城」(岡山県高梁市)はテレビ等でご覧になっておられるでしょう。雲海に浮かぶ「天空の城」松山城を恐らく何度も目にしておられるのではないでしょうか? 明智光秀が織田信長を誅殺したときに豊臣秀吉が水攻めで攻略していたのがこの備中松山城である。信長の死を知った秀吉は毛利方と和睦し有名な「中国大返し」を10日間で強行し、「山崎の戦い」で主殺しの光秀を打ち破った。主君の敵討ちを行ったこの戦いのおかげで秀吉に、天下が転がり込んできた。
しかし残念ながら備中松山藩に生まれた山田方谷を知る人は多くはない。実は方谷が活躍した備中松山藩は新島襄と深くかかわっている。それは襄が生まれた上州安中藩の本家である徳川幕府譜代大名の板倉氏が城主である。襄がアメリカに密航したきっかけは、この松山藩所有の舟に乗せてもらったことにより世界に目が向いたのも要因である。
山田方谷は江戸に出て佐藤一斎の塾で学んだがその時の秀才の一人が佐久間象山である。方谷は終生象山を嫌った。その才気ばしった振る舞いが許せなかったらしい。八重の兄山本覚馬は逆に佐久間象山を尊敬していた。京都木屋町で馬に乗った象山が暗殺されたときにいち早く覚馬が駆けつけた。
方谷は農民出身であるが幼少より秀才の誉れ高く、名君板倉勝静 (いたくらかつきよ) に目をかけられ、赤字慢性化した藩の財政立て直しを任された。方谷は砂鉄を利用した備中鍬の振興や大阪にあった米蔵の廃止、米相場のよいときに藩が直接売り、不作の時は米を農民に供出するなどして8年間で商人からの借金を返済し、赤字藩の財政を立て直した。
方谷の藩財政立て直しを聞き、同じような状況にあった越後長岡藩の河井継之助は弟子入りした。そこで学んだ継之助は藩主牧野忠恭の信任を得て、京都所司代や老中の辞任を建言し、藩財政を立て直した。継之助が財政立て直しを命じられた時の藩の借財は23万両、現在価値で言えば50億円相当という。借財と同じくらい貯金ができ長岡城の大広間に千両箱を積んでいたという。そして当時国内に3台しかなかったガトリング銃を2台買い軍事力を強化した。
板倉家と牧野家は京都所司代とか老中とか就任し、いわゆる幕閣の中心的な役割をはたした家柄である。そこに生まれた上級武士出身でもなく、尚且つ方谷は農民出身である。二人が勉学に励み藩の経世に尽力したことは日本史における快挙である。「方谷駅」というのがあり方谷の名は橋の名前とかいたるところに使用されており「備中の聖人」として慕われている。一方で、長岡市栄涼寺(えいりょうじ)にある河井継之助の墓は後世の住民の毀誉褒貶の変遷により墓石が削り取られるなどして悲惨である。戊辰戦争の敗戦で焼け野原となった住人の切ない思いがそうさせるのであろうが今秋松竹系で放映予定の役所広司「峠のサムライ」を見て
継之助の生きざまに共感してほしいと切に願う。
(文責:岩澤信千代)