🗓 2023年11月19日

高校時代の一番の思い出はノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹の講演である。私が在学中、創立80周年に当たり記念に講演をしに来たのだ。たまたま、湯川先生の「旅人・・ある物理学者の回想」を読んでいたので講演の内容は陳腐なものであり講演の内容に目新しさはなかったのを覚えている。ただ面前でノーベル賞受賞者の謦咳に接することができたのは幸運だったと思う。

最近会津高校ゆかりの人物に出会った。浅岡一である。明治に活躍した校長である。この校長が偉い人であることは在学中から知ってはいた。卒業生の中から毎年成績優秀者に「浅岡賞」が贈与られていたからである。同期で誰かがもらっているのだが受賞者名は覚えていない。

その浅岡一が愛読書「文芸春秋」の中に突然現れたのである。最近連載が始められた藤原正彦の「代表的日本人」の中にである。「日蒙を繋いだ教育の先駆者河原操子(みさおこ)」である。操子は講演の為信州に下田歌子(実践女子学園創立者)が来るというので会いに行った。「父親は双手を挙げて賛成した。すぐに元長野師範学校長で操子に女高師受験をすすめてくれた恩師、現在は華族女学校教授の浅岡一先生、そして現在の奉職校(操子が勤務していた)である長野高女校長の渡辺敏先生に紹介状を依頼した。」と出ていた。

浅岡一は二本松藩士の家に生まれ、戊辰戦争時は鉄砲組として出陣し、白河の戦いで負傷した。文中の渡辺敏は兄である。

明治39年(1906年)から大正元年(1912年)まで旧制会津中学に奉職していた。大正11年(1922年)、頌徳碑が長野師範に建立された。会津中学の校長としてより、信濃教育会の会長を勤めるなど長野県の教育界に厳然たる足跡を残されていた大教育者だった。

河原操子は蒙古のカラチンに入り、王妃に気に入られ現地に学校を作り子供達にも慕われた。一方で父親の親友であり、のちに陸軍大将・男爵になった福島安正に懇請されロシア軍の情報などを日本軍にもたらしていたという。

(文責:岩澤信千代)