🗓 2025年07月26日
吉海 直人
和菓子の神様として有名なのは、田道間守命(たじまもりのみこと)ですね。『日本書紀』垂仁天皇紀によれば、垂仁天皇90年に田道間守は天皇の命により「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を求めて常世の国に遣わされました。しかし田道間守が「非時香菓」を携えて常世国から帰ってきた時には、既に垂仁天皇は崩御された後でした。そのため田道間守は天皇の御陵の前で嘆き悲しんで亡くなったと伝えられています。
この田道間守の「たじま」が但馬と相通じることから、兵庫県豊岡市にある中嶋神社に御祭神として祀られています。彼が持ち帰った「非時香菓」とは橘のことですが、不老不死の薬ともいわれています(ポリフェノールが豊富に含まれているそうです)。その伝承の中で、果物の橘が「菓子」とされるようになりました。漢字は「果」に草冠ですから、本来お菓子は果物の別称だったことがわかります。辞書には「木および草の実で、多汁でふつう甘味があり、食用になるもの」とあります。語源についても「木の物」が「くだもの」に転化したとされています。会津長門屋にも「香木実(かぐのきのみ)」がありますが、これは鬼クルミを用いたお菓子でした。
それとは別に、米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)もお餅やお菓子の神様として信仰されています。この神は古代豪族・小野氏の先祖でもあります。大津近辺には古代豪族が多く居住していました。例えば地名の「和邇」が、渡来人の和邇氏に由来していることは有名ですね。同様に小野は、小野氏の本拠地であったことに由来しています。そのため遣隋使として有名な小野妹子をはじめとして、小野篁(漢学者)・小野小町(絶世の美女)・小野東風(能筆家)といった小野姓の人々の名前が上がっています。なお小野氏は和邇氏から派生した氏族だそうです。
小野妹子に関しては、唐臼山古墳が妹子の墓とされています。そこには小野妹子の祠も祀られています。その近く(志賀町)には小野家を祀った小野神社があります。その境内には小野篁神社もあるし、神社の飛び地には小野東風神社も建てられています。この小野神社というのは、延長5年(927年)成立の『延喜式』神明帳に、「小野神社二座名神大」とあり、日吉神社と並ぶ官弊大社でした。その祭神はというと、『小野神社明細帳』によれば、第五代孝昭天皇の第一皇子である天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と、その七世の孫である米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみのみこと)の二柱です。
伝承によれば、推古天皇の御代に小野妹子が先祖を祀るために創建したと伝えられています。この米餅搗大使主命は、もとは日布礼大使主命という名でしたが、応神天皇の御代に生の餅米を水に浸し、つき砕いて固めて藁の筒に収納した団子状の「しとぎ」という食べ物を考案し、それを応神天皇に献上しました。喜んだ応神天皇から、「米餅搗」という名を賜ったというのが。この名称の起源になっています。
この「しとぎ」こそは餅の原型ということで、米餅搗大使主命は日本で最初に餅をついたとされています。そのために餅造りの始祖として、餅の製造に携わる人々から篤く信仰されているというわけです。餅だけではありません。古代の餅は和菓子の元祖でもあったので、和菓子の神様としても全国の和菓子業界から篤く信仰されています。
現在では餅業界と和菓子業界は別々のものとされていますが、そのルーツを遡れば餅も唐菓子(揚げ菓子)も共にお菓子の原型とされていました。ですから小野神社では、毎年11月2日に「しとぎ祭」を行って、五穀豊穣を祈願しています。これは「しとぎ」を神饌として神様にお供えする行事です。
それに先立つ10月中旬には、全国の菓子業組合の人達が参拝に訪れて、盛大な祭りを行っているとのことです。なお本殿の前には鏡餅を模した珍しい鏡餅燈籠が設けられています。これに因んで、みなさんは老舗の和菓子屋さんの屋号に「匠」とか「司」という漢字が使われていることはご存じですよね。これは小野東風が和菓子を大系化したことで、菓子業の功労者に匠や司という称号を授与したという伝承に基いています。もちろん、現在そんな制度はありませんが、それでも和菓子屋さんの多くは今でも匠や司を名乗っています。この称号は小野氏が祀られている小野神社の祭神に因むものだったのです。