🗓 2024年07月11日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

新島八重のことをあれこれ調べているうちに、いつの間にかいろんな人とつながってくることがあります。特に会津藩出身の女性たちと、八重は生涯に亘って交流していたので、これまで不明とされていた人物についても、今後明らかになる可能性がまだまだ残されています。その一人が日向(内藤)ユキだったわけですが、そのユキと八重の橋渡しをした雑賀アサについても、ようやくその全体像が明らかになってきました。
 昨年私が刊行した『定本新島八重伝』において、アサについては新島襄の「出遊記」に、

八重は、同国人おユキの此地にあるを函館の在雑賀浅女より聞き、直に此地に来しに、近傍に住するにより之を訪ふ。  (『新島襄全集5日記・紀行編』298頁)

と出ていることを紹介し、さらにユキについて述べたついでに、

函館では、旧知の雑賀(さいが)浅(会津藩家老・簗瀬三左衛門の娘、雑賀重村の妻)との再会もあった。浅も洗礼を受け、遺愛女学校(内藤鳴雪命名)の裁縫教師兼舎監として務めていたのである。浅は後に平安女学院の舎監にもなっているので、京都で八重と再会した可能性もある。「女学雑誌」391(1894年8月)には、彼女の「思ひきや捨てし命の今日までも長らへて世の憂き目見んとは」という歌が掲載されている。会津の女性らしい歌である。八重はその浅から、幼なじみの日向ユキが結婚して札幌に住んでいることを教えられた。(112頁)

と手短かにコメントしておきました。というのも、その時にはまだアサの全体像、特に晩年の消息がわかっていなかったからです。実は岩澤信千代氏の『不一』には、アサが東京の青山女学院に勤めていたことが記されていたのですが、迂闊なことに見過ごしてしまっていました。その反省をこめて、今回あらためてアサの生涯をたどってみたところ、新事実がいくつか見つかりました。

まず雑賀アサの人生について簡単に述べておきます。アサは会津藩家老・簗瀬三左衛門の娘として天保十四年(1843年)に生まれました(八重より二歳年長)。成長して同藩士・雑賀重村(孫六郎)に嫁いでおり、それによって雑賀浅となっています。文久二年(1862年)八月には長男頼秀が誕生しているので、嫁いだのはそれより一年以上前ということになります。
 アサの人生が大きく動いたのは、明治元年九月の鶴ヶ城開城でした。それに伴って、一家は移封となった斗南藩に移住します。明治四年には重村が開拓使の役人(内藤兼備の同僚)となったことで、函館の上大工町に居住しました。これは重村が蝦夷地のことに通じていたことによります。そこへ斗南から日向ユキが家事手伝いとしてやってきました。その年、ユキは旧薩摩藩士の内藤兼備と結婚して札幌で暮らすことになります。
 重村は明治十二年に初代茅部郡長となりますが、翌明治十三年に四十五歳で病没してしまいました。そのためアサは、明治十五年に遺愛女学校の初代舎監となっています(三十八歳)。翌明治十六年には、函館教会において山田寅之助牧師から洗礼を受けてクリスチャンになりました。これで八重とはキリスト教というつながりが生じたわけです。
 明治十九年十二月、矢島楫子によって東京婦人矯風会が発足すると、アサはそのわずか七か月後の明治二十年七月に、早くも函館婦人矯風会を発足させ、禁酒・廃娼運動などの女性解放運動を率先して行っています。それはちょうど襄と八重が函館を訪れた直後のことでした。その婦人矯風会の熱心な活動が認められたことで、明治二十四年には青山女学院の舎監として東京に招聘されています(四十七歳)。もちろん婦人矯風会の活動が主であり、東京婦人矯風会の会頭の重責も任されています。
 岩澤氏の『不一』に、青山女学院以後のアサの消息は記されていません。これまで不明とされていたようです。幸い婦人矯風会の活動の一環として、明治三十二年に平安女学院の舎監として京都に赴任していることが新たに判明しました。その翌年には、京都婦人矯風会の会頭にも就任しています。この京都赴任中に、八重と再会した可能性は高いはずです。といっても、八重は婦人矯風会より日赤篤志看護婦に肩入れしているので、すれ違いもあったことでしょう。
 それはさておき、アサの京都在住はわずか三年でした。というのも、病を得て明治三十五年十一月に平安女学院を退職し、妹・貴美子の嫁ぎ先である静岡へ転居しているからです(五十八歳)。それから五年後、アサは明治四十年五月十一日に療養先の静岡で亡くなりました(享年六十三)。その遺骨は東京の青山霊園に葬られています。この青山霊園には、遺愛女学校の命名者である内藤鳴雪の墓もありました。
 と、ようやくアサの生涯がここまで明らかになりました。