🗓 2023年10月02日

吉海 直人

    はじめに

 みなさんは「秋山角弥」という人物をご存じでしょうか。このコラムで取り上げるのですから、福島出身者という察しはつくでしょう。私がその名を知ったのは、新島八重の伝記を書いている時でした。真っ先にその名前を目にしたのは、会津会会報の記事の中です。というのも秋山は、京都会津会の幹事として京都会津会のことを会津会会報に掲載していたからです(学生幹事だった天野謙吉や風間久彦よりはずっと年長です)。

    一、会津会会報(磐城平)

 最初にその名前が見えるのは、会津会会報16号(大正9年6月)でした。その中の「葉書通信」欄に自らの近況紹介として、

毎々御手数をも厭はせられず御垂問下され誠に光栄至極でございます。私は明治四十五年一月当平町に県立高等女学校が創立せられました際就任、爾来約九ヶ年勤続いたして居りますが、毎年同じ様な年中行事を繰返すだけ、古参なといふだけで格別仕出かした事もなく特に御報申上ぐべき何物をも持たぬのは誠に御恥づかしうございます。しかし何等の不安もなくかうして勤めて居られるのも、同郷先輩諸君の御庇蔭による事と常に心に感謝致して居ります。当地には郡長佐瀬剛氏、上席郡書記杉原新伍氏、磐城中学校に山本良作氏、同僚には窪小谷米二、谷内宗惇、千葉太次郎、大内よし、大久保よね、森運吉の諸氏あり、なかなか賑かで、市内には高久忠氏、古河四郎氏など居られ、時々は会合いたすこともございます。近詠左に御笑草までに書き添へます。御取捨御自由になし下さいませ。(四月廿二日)
日毎つく衣の襟の垢よりも心の垢をまづ洗はまし
とことはに活きんとはせで現世に生きんとあせる人の多かる
藩閥の勢ややに衰へぬ起たずや会津などてためらふ

と紹介しています。これを読むと秋山は、明治45年に新設(私立磐城女学校を改組)された磐城高等女学校に9年勤続していることがわかります(前職は岩手県の盛岡中学か)。

それからしばらく会報に秋山の名前は出てきません。次に見つけたのは、5年後の会津会会報27(大正13年12月)でした。今度は「京都通信」という見出しで、しかも秋山の肩書は「京都専修商工学校教諭」となっていました。その記事の最初に、やはり自己紹介風に、

拝啓小生今春地方教育のため十有三年微力を致したる磐城平を去ることを余儀なくせられ、四月以来京都に移住仕り矢張り中等学校教員として活動致居候間倍旧御眷顧奉願上候。

とありました。これを読むと、大正13年に13年間務めた磐城平の高等女学校を辞任して、京都に移住したことになります。これを契機として、秋山の京都会津会での執筆活動が開始されました。ちょうど会報27号には会員名簿が付せられており、それによれば秋山の住所は、「京都市上京区塔ノ段桜木町408」となっていました。

試みにこれ以前の会津会会報に付されている会員名簿にあたってみたところ、会報17号(大正9年12月)には、「福島県石城郡平町 高女教頭」と出ており、当時の肩書は高等女学校教頭とありました。その職を捨てての京都移住というのは、何か事件、あるいは思うところがあったのでしょうか。

    二、会津会会報(京都通信)

 会津会雑誌29号(大正14年12月)の「京都通信」も引き続き秋山が担当していました。次の雑誌30号(昭和2年6月)になると、「野矢常方と近藤芳樹」という題で寄稿までしています。なお雑誌30号に付いている会員名簿を見ると、秋山の住所が「京都市上京区上御霊前下る宮本町620」に変更になってました。しかも肩書が「中学校教諭」になっているので、職場が変わったらしいこともわかります。さらに雑誌35号の名簿を見ると、肩書は「中学校教諭」のままですが、住所が「京都市上京区相国寺北門前中ノ町」にまた変更になっていました。
 それから少し間が空いて、会報34号(昭和4年7月)に次の「京都通信」が出ていました。その最初に秋山の弁明として、

京都会津会の状況は会合、協議会のあった直後に一一御報申上げるのが義務でありますが、九月から翌年二月までは持病の喘息に悩まされ、兎角に気分も勝れませぬ私つい相済まぬ相済まぬと存じながら延引になりまして申訳がございません。昨今漸く健康も回復し閑暇も得ましたので、一括して御報申上げる事に致します。

と書いています。この時秋山は喘息を患っていたようです。今回の記事の中で注目すべきは、山本覚馬翁追悼会でしょう。

昭和四年一月二十七日午後一時から同志社礼拝堂において、我が同郡の先覚、京都府・市の恩人別しては同志社大学の創設に当り新島襄氏を助けて今日の盛運を開かしめたる山本覚馬翁の三十八周年追悼会が、極めて盛大に、極めて有意義に行はれた。我が京都会津会も発起人の中に加はってゐたので、奥田重栄・大場義衛・秋山角弥の当番幹事学生側同天野謙吉・風間久彦の両君を始め多数参会しましたが、東京からは林権助男が態態わざわざ来会せられ、翁を偲びて日清日露の外交談翁の霊に捧げられるなど一段の光彩を添へました。
もちろんそこには覚馬の妹である新島八重も同席しており、
 この日翁の令妹にして新島襄先生の未亡人たる八十五歳の八重子刀自は矍鑠壮者を凌ぐ元気で、来会者一同に異常の感動を與へられました

と元気な姿を見せていたことが記されています。

    三、猪苗代時代の情報

 見てきたように秋山は、京都会津会の幹事として会津会会報(会津会雑誌)に「京都会津会」のことをほぼ一人で長く報告し続けていました。これは秋山が国語の教師ということで、文章をまとめることに慣れていたからでしょうか。残念なことに、この秋山についての詳細はわかっていません。
 たまたま現在の猪苗代町立猪苗代小学校の吉野徹校長から、卒業生の秋山角弥についての問い合わせが新島八重顕彰会にあったことが、今回の秋山角弥調査のきっかけでした。吉野校長からの情報としては、秋山の生年は明治7年(1874年)4月(没年は未詳)であり、猪苗代小学校を首席で卒業(明治22年3月)したこと、彼の2年後輩に野口英世(明治9年11月9日生まれ)がいたこと、また盛岡中学校の教師であった折、当時生徒だった金田一京助や石川啄木などと交流があったことなどです。
 盛岡中学のことは、郷原宏著『ことば探偵金田一京助の秘密第2回』にも、

明治34年(1901)に国語教師として盛中に赴任した秋山角弥が自宅で『万葉集』の講読演習を始めた。京助は野村長一(菫舟)、岩動孝久(露子)、石川一(啄木)ら杜陵吟社の仲間たちとこの演習に参加して万葉の歌を学んだ。

とありました。これによれば秋山が明治34年に盛岡中学に国語の教師として赴任したことになります(明治45年までか)。その秋山の自宅に金田一や啄木が寄り集まり、『万葉集』を学んでいたとのことです。秋山との交流について啄木は、『明治四十丁未歳日誌』9月2日条にも、

予はかの盛岡の学堂にありし頃、友瀬川藻外と共に浅岸の山奥に秋山角弥といへる一教師を訪ひしことを思出でて語りぬ。

と彼の名前を記してありました。

また『ことば探偵金田一京助の秘密第2回』には、

石川一・古木の回覧誌『三日月』と瀬川らの詩誌『五月雨』が合併し、新たに回覧誌『爾伎多麻にぎたま』を発行することが高らかに宣言された。祝詞めいた誌名は『古事記』からの引用で、秋山角弥という教師が命名してくれたものだった。

とあって、難しい祝詞のような誌名は秋山による命名であるとされています。同誌第一号は明治34年9月21日に無事発行されたようです。なお誌名の『爾伎多麻』については『古事記』からの引用とありますが、『日本書紀』『出雲国風土記』『万葉集』などに見える言葉でした。

ついでながら、秋山は文筆家としての名も残していました。代表作は、『楠木正成公』(光風館書店)明治43年6月刊でしょう。また母校である猪苗代町立猪苗代小学校の校歌も、「秋山角弥作詞・田村虎蔵作曲」となっており、秋山が作詞していることがわかりました。その他、会津会雑誌35号(昭和4年12月)の「野口博士記念碑除幕式其他」を見ると、

閉会にさきだち五百名余の小学生は本会員秋山角弥氏の作「野口博士を憶ふ」の唱歌を歌ひたる時は一同襟を正して謹聴、中にはハンカチを湿したる人も見受けられた。

とあり、「野口博士を憶ふ」という唱歌を作って歌っているようです。これは現在よく知られている土居晩翠作詞・古関裕而作曲の「野口英世」とは別の曲です。

あるいは作者不明とされている「磐梯山の動かない姿」で始まる「野口英世」という曲のことかとも思いましたが、公益財団法人野口英世記念会に問い合わせたところ、「野口博士を憶ふ」の楽譜が保管されていることがわかりました。その一番の歌詞を見ると、「かしこにみゆるちいさきいえは のぐちはかせのうまれしいえよ われらのまなぶこのまなびやは はかせもかつてまなびしところ(にけりな) われらのあそぶちんじゅのもりに おさなきはかせもあそびにけりな」だったので、「磐梯山…」とは違っていました。また楽譜には秋山角弥ではなく「星是美」という名が記されていました(ペンネームかもしれない)。ということで会津会雑誌の「秋山角弥氏の作」は謎のままということになります。
 会津会雑誌53号(昭和13年12月)の「新城新蔵博士を偲びて」(秋山記)には、思わぬ収穫がありました。というのも、

明治二十八年の初秋私は東京に出て、飯田町の國學院に入学したが、当時同居したのが、安積中学の先輩志賀(後堀江)覚治君の春木町の寓居であった。

と、彼が安積中学卒業生であることが記されていたからです(明治23年入学、27年卒業とのこと)。これで彼の学歴が、猪苗代小学校・安積中学校とつながりました。これだけでも大収穫です。

    四、國學院とのかかわり

 ここまで来て秋山が国語の教師であること、『万葉集』や『古事記』や神社に造詣が深いことから、ひょっとすると秋山は神主の家の出身ではないか、國學院の卒業生ではないかと類推してみました。会津会雑誌55号(昭和14年12月)に「土津神社が県社に列せらるるまで」という文章を載せているのだから、まずそのあたりが手掛かりになりそうです。そこで岩澤信千代氏が猪苗代の秋山姓を当たってくださったところ、すぐに角弥の父平治が土津神社の禰宜だったということが判明した。平治は戊辰戦争の際、土津神社の御神体の移動に付き従った禰宜の一人だったとのことです。
 幸い國學院は私の母校なので、まず手元にある國學院雑誌の総目録に当たってみたところ、以下のようなものを掲載していることがわかりました。

・「義人纂書の編者鍋田三善翁」國學院雑誌22―3・大正5年3月
・「楓園草盧より」34―2・昭和3年2月
・「小平潟天神と猪苗代兼載〈菅公号〉」34―4・昭和3年4月
・「和魂漢才に就いて」34―8・昭和3年8月
・「再び和魂漢才に就いて」34―12・昭和3年12月
・「三度和魂漢才に就いて」35―6・昭和4年6月
・「青戸波江先生の思ひ出」(共著)36―4・昭和5年4月
・「師承態度の考察」36―7、8・昭和5年7、8月
・「古事記現代考 植木直一郎著(書評)」49―8・昭和18年8月

さらに「掃苔録」(墓石の苔を掃うこと)という連載が、37―6、8、10、11 38―2、3、4、6、7、9、10、11、12 39―6、7、10、12 40―4、6、7、9 42―2 43―10と、全体で27年にわたって掲載していたのです。これだけたくさん國學院雑誌に載せているということは、間違いなく國學院の卒業生であろうと確信して、手元にある卒業生名簿を調べてみたところ、やはり大当たりでした。明治23年に設立された國學院(現國學院大學)の六期生(明治31年卒業)名簿に秋山角弥の名が出ていたのです。なんと秋山は私の大先輩だったことになります。
 また奥村鶴吉編『野口英世』(科学図書館)を見ると、八子弥壽平宛の野口の手紙に、

去る廿六日秋山角弥君の宅に於而猪苗代同窓会を相開き申し候処随分睦ましく談話を致し散会致し申し候会する人秋山角弥、奥田秀治、佐瀬剛、石川栄司、六角姉弟、秋山義次、宇川久衛、野口清作の御座候。(167頁)

と出ていました。これによれば秋山の下宿で同窓会(野口の歓迎会)を開いたことになります。これは明治30年12月26日のことなので、秋山が國學院に通っていた時とぴったり重なります。

その秋山が最初に國學院雑誌に掲載した「義人纂書の編者鍋田三善翁」ですが、「義人」とは赤穂浪士(忠臣蔵)のことです。それを著した「鍋島三善」は磐城平藩の漢学者でした。大正4年に友人の植木直一郎から、鍋田翁は君の現任地の藩士なので調べてみたらどうかといわれ、そこで詳しく調査したものを昭和3年に発表したというわけです。
 それとは別に國學院雑誌の中に「青戸波江先生の思ひ出」があります。この青戸波江は、現在の神社祭式行事作法の基礎を築いた大人物です。その先生の思い出を書いているということは、秋山も國學院で神主の資格を取得しているに違いありません。父が禰宜なのだから当然ですよね。
 ここまで調べたところで、あらためて会津会雑誌に目をやったところ、44号(昭和9年6月)に「私の近況」が掲載されていることがわかった。そこに、

昭和四年度までは立命館の一職員として、その中学校に勤めてゐましたが、同五年から京都國學院と申す神職養成の学校に聘せられてまゐり、現在も相変らず青少年を相手として東山大閣廟のほとりの学園で教鞭を執って居ります。

云々と報告されているではありませんか。これによって秋山の学歴に國學院が加わり、そして職歴は、盛岡中学・磐城高等女学校・京都専修商工学校・立命館中学校・京都国学院と転職していたことが明らかになりました(大阪の四条畷中学は出てきません)。ということで、國學院雑誌への投稿は京都國學院に奉職してからのものがほとんどだったこともわかりました。最後の投稿は昭和18年(1943年)ですが、その時秋山は69歳ということになります。

 ついでながら、啄木たちの回覧誌を「にぎたま」と命名した件と関連することですが、秋山の論文に「和魂漢才」に関するものが三つも掲載されていることに気づきました。実はこの「和魂」こそは「にぎたま」のことなのです。おそらく秋山は、長年にわたって「にぎたま」について研究し続けていたのでしょう。

    まとめ

 なお彼の書いた「義人纂書の編者鍋田三善翁」(國學院雑誌)の最初のところに、秋山自身の幼少期の懐古談が出ていたので、それを紹介しておきます。
  私は少年時代から一種の義士癖を持って居ました。小学校に通ふ十二三歳の頃、太平記の『落花の雪』を暗誦して、遊戯の折などには盛んに高声でやったものですから、或時などは五六歳年長の人から所望せられ、丁寧に写してやって喜ばれた事などもありました。中学時代には『忠臣蔵二度目清書』を一段全部暗記し、精神の疲労した場合、退屈な折などには度々暗誦しましたので、同室に居った一人の友人も遂に化せられたとでも申しませうか、これまた一段全部暗誦出来るまでになった事もありました。
 これによれば、記憶力のすぐれた少年だったことがわかります。また彼の研究テーマについては、

私は多年藩祖正之公を研究して居り、只今も公と山崎闇斎先生との関係、特に垂加神道と公の神道研究、公の勤王事跡等に就いて研究を続けて居りますが、性来の愚鈍遅々として進まず、常に「日暮れて道遠し」の嘆声をもらしてゐます。

とありました。

以上、思いがけない吉野校長の問い合わせに端を発して、秋山角弥について岩澤氏と一緒に大急ぎで調べてわかったことをまとめてみました。もともと秋山は、新島八重との関連から目にとまった人物だったのですが、あらためて会津会会報をめくってみたところ、かなり多くの記事を執筆していたことがわかりました。その中に秋山自身の消息も含まれていたのが収穫でした。
 もう一つ、今回明らかになったのは、安積中学校・國學院を卒業していたという新事実です。だからこそ古典・神道に強い国語の教師として活躍していたわけです。ひょっとすると実家は神社関係ではないかと推察してみましたが、これも大当たりでした。ただ生家のこと、家族構成、亡くなった年と場所、どこに埋葬されたのかなど、まだわからないことだらけです。
 秋山ほどの人物なら、もっといろんなところに資料が埋もれているに違いありません。会津会雑誌以外に野口英世や石川啄木関連の調査、土津神社をはじめとする地元猪苗代の戸籍や生家などの調査は必須でしょう。京都國學院にもなにかしかの資料が残っているに違いありません。また文筆家としても、作詞を含めてもっとたくさんの文章を執筆しているはずです。是非みなさんも秋山角弥についての資料を探してみてください。