🗓 2023年10月01日
みなさん、野口英世のことは御存じですよね。アフリカで黄熱病の病原菌発見に尽力し、みずから黄熱病に感染して亡くなった偉人です。小さい頃に彼の伝記を読んだことがある人も多いかと思います。たとえ伝記を読んでいなくても、千円札に肖像が出ている人といえばおわかりでしょう。
彼はまず毒蛇の研究によって、明治44年に京都大学から医学博士を授与されています。次に梅毒スピロヘータの研究によって、大正3年には東京大学から理学博士の学位を授与されました。それもあって翌大正4年には、帝国学士院から恩賜賞を授与されています。その凱旋もあって彼は15年ぶりに帰国し、老いた母しかへの親孝行を兼ねて、三重・大阪・京都を見物しながら、各地で講演旅行を行いました。彼はその後、再びアメリカに旅立ち、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。
その野口博士が京都を訪れていた大正4年10月15日に、なんと同志社女学校を訪問していたのです。そのことは同志社時報125号(大正4年11月1日)に「野口博士の来校」として、
と記載されていました。では何故野口博士はわざわざ同志社を訪問しているのでしょうか。その理由というか同志社女学校との関りはよくわかっていません。
ただこの記事の後半を見ると、グリーン博士のことが妙に強調されていますね。そのことにどんな意味があるのでしょうか。また「簡単なる演説」とあるだけでは、野口博士がどんな話をしたのかもわかりません。
そこで次の同志社時報126号(大正4年12月)の同志社女学校欄を見ると、「講話」のところに、
とありました。これによれば「日米関係及び同志社の特色」などを話したことになります。それでも具体的な内容はさっぱりわかりませんね。そこでさらに10月16日の大阪朝日新聞を見たところ、「野口博士の美はしい友情(グリーン氏への土産の撮影)」という見出しで、次のように書かれていました。
この記事によれば、講演の内容は「米国の女子教育について」だったようです。渡米した野口博士の体験談が語られたのかもしれません。
もう一つ、野口博士があえて同志社を訪れた理由については、どうやらロックフェラー研究所のグリーン理事の父が住んでいた旧邸を撮影することだったようです。ご存じのようにグリーン博士はアメリカンボードの宣教師として来日し、1882年から1887年まで同志社英学校の教師を務めていました。しかも建築家として、現在重要文化財に指定されている彰栄館・礼拝堂・有終館を設計した人でもありました。
ひょっとすると息子のグリーン理事にとっても幼少期の思い出の場所だったかもしれません。その建物などを野口博士はカメラで撮影して、帰国後にグリーン理事へのお土産にして渡したというのです。真偽のほどは定かではありませんが、今のところこれ以上に合理的な答えは見つかりそうもありません。
ところでご承知のように、野口博士は福島県猪苗代の出身でした。会津若松出身の新島八重とは同県人だったのです。しかも野口博士は会津会の会員でもありました。ですから彼の女学校での講演を八重が聞いていた可能性は十分あります。それを裏付けるような資料がどこかに埋もれていないでしょうか。