🗓 2019年09月17日
ああ上野駅
ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや」
金沢が生んだ詩人室生 犀星の代表作である。上記の詩のように「人間到る処青山あり」で故郷を離れ、頑張った人々も多い。明治維新後、日本の国力は極めて貧しく、日露戦争でバルチック艦隊を破り、戦勝国となり一流国になったと喜ぶ一団がいた。ロシアがモスクワから主戦力を日本に向けたら、勝てなかったという論者もいる。
バルチック艦隊を破った時の連合艦隊第3戦隊司令官は会津藩出身の出羽重遠である。薩摩藩出身者以外で初めて海軍大将になった。賊軍出身の大将ということで新聞でも話題になった。藩閥政治の明治時代に薩摩藩・皇族出身者以外で海軍大将になったのは他にいない。繰り返すが会津藩出身者出羽重遠のみである。それも、父親が100石以上の給料をもらっていなかったので日新館には入れず、北学館出身(100石未満の下級藩士の子弟が通った。南学館と二つの学校があった)である。刻苦勉励して海軍大将になった。重遠が一生懸命努力したことと薩摩出身である海軍の重鎮山本権兵衛の高評価を受けたことが昇進に結び付いた。山本権兵衛が海軍大臣になった時、次官に望まれたが、辞退し代わりに斎藤実を推挙した。余談だが、斎藤実はその後総理大臣になった。時を経て内大臣の時に2.26事件が勃発し、若手将校に殺害された。
「金の卵」と言われ、就職列車に乗り都会で就職し、高度経済成長を支えたのは地方出身者であった。会津でも農家や商家の長男は家業を継ぐために地元に残ったが、それ以外の多くの若者は働き口を求め都会に巣立っていった。
北海道・東北出身者の列車での到着駅は「上野駅」である。私も18歳で大学に行くため上京した時の都会への第一歩は上野駅である。親戚の冠婚葬祭などで上京した父親を上野駅で見送った。実は伯父が東京で衣料品店を経営していたので、農閑期に父親が手伝いに行くため私は5、6歳の時から何度も東京へは行っていた。当時は石炭車でトンネルの中で知らずに窓を開けていて顔が真っ黒になった。石炭の燃えた匂いも懐かしい。
会社に入り、カラオケに行くと井沢八郎の「ああ上野駅」が持ち歌となった。親元を離れて都会に出るときはなんと心細かったことか。今は携帯などがあるせいか死語になっているが「5月病」というのがあった。就職や進学で親元を離れた若者が寂しくてうつ病になり、何も手がつかなくなる。大学在学中は叔父・叔母たちの世話になり小遣いももらったりしていたので、私は大丈夫だった。
父親が亡くなり、母親一人になったので50歳を期に会津に帰ってきたのだが、故郷を離れ都会で頑張っている叔父叔母の苦労を想うと室生 犀星の詩が胸に響いてくるのである。
だから、会津会の「盆踊り」なのである。会津から距離は離れているけども、心は一つになれる。民謡「会津磐梯山」で偉大なる自然を思い出す、そして、共有出来る「歴史」を持っている我々会津出身者は幸せなのである。
共有できる歴史があるからこそ、山本覚馬・新島八重兄妹の人生も共感できるのである。覚馬の口癖は「・・・ぶるな、・・・らしくしろ。」である。「偉ぶるな、会津人らしくしろ。」と聞こえるような気がする。
(文責:岩澤信千代)