🗓 2020年04月07日

古関裕而と「紺碧の空」(早稲田大学第一応援歌)

3年前に収録された「大衆音楽を広めた古関裕而と西城八十」をユーチューブの動画で見た。司会は武田鉄矢で古関裕而の長男も出演されていた。

そこで図らずも「紺碧の空」誕生秘話を知ることとなった。当時六大学野球で早稲田は慶応に四連敗していた。なんとかせねばと応援部が考え、応援歌に行きついた。当時慶応には名曲「若き血」があり、その歌には特徴があった。早稲田の校歌は皆さんご存知の「都の西北」である。いわゆる校歌である「慶應義塾塾歌」は、あまり世間に知られていなかった。

「若き血」は有名な早稲田校歌「都の西北」を粉砕すべく作曲された。「都の西北」は、低音から高音に進むが、逆に「若き血」は高音から低音に進む。すなわちオタマジャクシは真逆なのである。当時の古関裕而はコロンビアと契約していて月給200円だったがヒット曲が長い間なかったので100円に値下がりした。コロンビアに対し妻金子の交渉により契約はほそぼそと続いていた不遇の時代だった。そんなときにやはり作曲料にお金を使えない早稲田応援部は、古関裕而に作曲を依頼した。その頃早稲田に在籍した「イヨマンテの夜」歌手伊藤久男の従兄の推薦だったという。そこから古関裕而の作曲活動は「東京オリンピックマーチ」へと快進撃は続いていった。

そしてこの応援歌ができたら早稲田が野球で慶応に勝った。5連敗を免れたのだ。その後「紺碧の空」は有名になり、第六応援歌から第一応援歌に昇格したという。我々早稲田応援団は神宮球場で点数が入るたびに起立し肩を組んでこの応援歌を歌う。同窓会では校歌と「紺碧の空」は必ず大声で歌う。気分が乗れば第二校歌尾崎士郎原作「人生劇場」をみんなで歌う。

この稿のおまけに不謹慎ながら「若き血」の替え歌を載せる。

「馬鹿き血」
馬鹿き血に飢えるもの   狂気みてるやつら
銀座の女給にうつつを抜かし 共に歩むその姿 見るもあさまし
見よ 低能の集うところ
ワイセツの意気高らかに さえぎるもなのきを
低能 低能 三田の色摩 低能

現在はわからないが、私が入学した頃、新入生はこの替え歌を飲み会ですぐに覚えた。

勘違いしないでほしいのだが、それだけ慶応の応援歌「若き血」は覚えやすい名曲であり、早稲田に古関裕而作曲の「紺碧の空」がなければ、応援歌では今でも慶応の風下に存在しなければいけない危惧があったのである。
全国の早稲田関係者はすべからく福島県福島市出身の古関裕而に感謝しなければいけないというのが私の主張と結論である。

(文責:岩澤信千代)