🗓 2021年03月15日
不一・・・「新島八重の遺したもの」を書いたときの資料に「新島襄全集 5」に雑賀アサの名前があった。薩摩出身の内藤兼備のもとに嫁いでいた日向ユキの所在を教えてくれたのである。襄は非常に筆まめで旅行日記をつけていた。
明治20年7月14日付けで「〇八重は同国人おユキ女の此地にあるを函館の雑賀浅女より聞き、直ちにこの地に来し近傍に住するにより、訪う〇ユキ女は土木課長内藤兼備君の妻となれり」
日向ユキと山本八重は家が斜め裏表で幼馴染であり裁縫や書道を一緒に習っていた。
戊辰戦争後20年を経てやっと会えたのである。まさに劇的な出会いである。八重が札幌に着くなりすぐに日向ユキに会いに行ったことが襄の日記の文面からとれる。
昨日、斗南会津会の山本会長から家系図の話になり、内藤家老家と梁瀬家老家と姻戚関係があり、梁瀬三左衛門の娘の一人が雑賀重村に嫁いでいるということが分かった。そこで家系図を送ってもらい確認したところ、泰雲寺で自害した内藤信節の最初の妻ツヤが梁瀬三左衛門の二女であり、その妹が三女の浅(アサ)であった。
すなわち、山本会長の曽祖父内藤信節の先妻の妹アサが、新島八重とつながっていた。これも不思議な縁である。山本会長が家系図を持っていなかったらここまでは解明できなかった。
日向ユキと八重の交流は吉海先生の
函館の遺愛女学校─八重講座(36)
「夫婦で訪れた遺愛女学校には、なんと元会津藩士の娘・雑賀浅が舎監兼裁縫教師として勤めていたのである。」
新島八重と内藤(日向)ユキ─八重講座(3)
に詳細に記載されている。
(文責:岩澤信千代)