🗓 2024年01月27日
文芸春秋2月号「私の代表的日本人・福沢諭吉」を読んだ。
福沢諭吉は中津藩の下士の出身であるが、若い頃長崎に勉強に行った。家老の息子奥平壱岐が勉学に来ている寺に転がり込んだ。日中は壱岐の身の回りの世話や寺の雑用をこなした。しばらくして壱岐の横柄さに我慢ならず寺を出て砲術家山本物次郎の食客になった。山本の息子に漢学を教えたりしてオランダ語を学んだ。そんな矢先、中津にいる従兄弟から手紙が来た。「母親が病気だからすぐに中津に帰るように」慌てて帰ろうとすると
「ご隠居様(壱岐の父でもと家老)からの命令で余儀なくあんな手紙を書いたが、母親は元気だ。心配するな」
壱岐が仕組んだ猿芝居だったのだ。諭吉の語学力の進歩と山本の寵愛を妬んだ壱岐が、父親に頼み諭吉を中津へ戻そうとしたのだ。それで現実主義者の諭吉は考えた。こんなところにいるよりも長崎より江戸に行こうと決心した。翌朝壱岐の所へ行き中津へ帰国すると挨拶した。そのまま諭吉は中津へは戻らず小倉を経由して船で江戸に向かった。お金が足らず明石から大阪まで60kmほど歩いた。兄の三之助が勤務していた中津藩蔵屋敷に行き会った。兄は母親にも断わらず大阪まで来たのか。兄弟で画策して江戸にやった親不孝と言われる。大阪にも緒方洪庵という大先生がいるからと説得され適塾で学んだ。20歳だった。ここが諭吉の運命を拓いた。まさに奥平壱岐の意地悪のおかげだった。
長崎で壱岐の妨害がなかったら諭吉は緒方洪庵に巡り会わなかった。その意味で門閥の家老家のバカ息子が諭吉を大成させた恩人といえる。また偉人となった諭吉をいじめたおかげで壱岐は歴史に名を残した。
時は変わり北越戦争での長岡藩の家老河合継之助の小千谷談判の話になる。河合継之助は慈眼寺で新政府軍軍監・岩村精一郎が会談するも決裂した。岩村精一郎は後日この談判の言い訳をしている。「新政府軍に参加した松代藩の家老などは門閥に生まれただけで何の役にも立たない。河合継之助もそのような馬鹿家老だと思った。」柏崎にいた山縣有朋は岩村に、到着するまで河合を待たせるように命じたのだが、河合を帰してしまった。この会談の決裂で河合は中立主義を放棄し開戦の決意を固めた。封建時代は出自により階級が決まっていた。その中には岸田首相のバカ息子のようなものがたくさんいたのである。
会津藩も同様で「会津藩教育考」を著した小川渉も「志ぐれ草紙」で門閥家老の横柄さと無能さを皮肉っている。岩村精一郎の懐古は有能な人材を死に至らしめた弁解であるが20歳そこそこにでもあり河合継之助の偉大さは見抜けなかったのは残念である。継之助が明治新政府で要職を得れば日本国家に相当貢献できたはずだ。福沢諭吉の嫌った勝海舟や榎本武揚とは人物が違った。
(文責:岩澤信千代)