🗓 2024年03月05日
『米百俵 小林虎三郎の天命』をUチューブで見た。
軍事総督河合継之助の判断により長岡藩は奥羽越列藩同盟と行動を共にした。西軍に東軍は敗れ長岡藩は74000石から24000石に厳封になった。
戦いに敗れ明治新政府の下で武士階級は貧窮のどん底に陥った。それを知った支藩(分家)の三根山藩から米100俵の援助があった。その時の大参事(県副知事のようなもの)小林寅三郎は国漢学校を作り書籍を買った。食うに食われぬ家臣団は大反対である。当然だ今日明日食う米もないのだから、家臣たちにとっては今すぐにでも米を分けてほしい。
しかし、寅三郎は
「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」(主演:中村 嘉葎雄なかむら かつお)とその主張を通した。
国漢学校は」私立坂之上小学校・県立長岡高校の前身となった。家臣団に分配すれば一人2升程度、食べてしまえば何も残らない。教育による人材育成は将来の糧になる。映画のクライマックスは寅三郎が「常在戦場」の掛け軸を持ち出して家臣団を説得した。長岡藩祖牧野の殿様が徳川家康の配下になって以来の藩是である。
5月9日櫻井よしこ先生が会津で講演されるが長岡高校出身である。櫻井よしこ先生・山本五十六など歴史上名を残す人が新潟県長岡出身に多いのはこのためだ。
※この「常在戦場」は武田信玄の「御旗盾無し御照覧あれ」と同じくらい長岡藩士にとっては金科玉条なのである。御旗は甲斐武田源氏の祖、新羅三郎義光から伝わる日の丸の旗である。盾無しはやはり新羅三郎義光以来伝わる鎧である。武田家当主が「御旗」と「楯無」に誓ったからには、決まった事を覆すわけにはいかなかった為、長篠の戦で滅亡した。長岡藩は武田勝頼でなく小林寅三郎がいたために明治期以降の俊秀を中央に送り出すことができたのである。
余談だが調べたところ、安倍派には衆参両院とも新潟出身者はいなかった。
(文責:岩澤信千代)