🗓 2024年09月15日

 自民党総裁選で林芳正はキャッチフレーズで「人にやさしい政治、仁の政治」を掲げた。時代錯誤と感じた人も多いだろう。

 タイトルは陽明学を山田方谷より学んだ河合継之助のモットーである。国会議員は税金で給料をもらっているのでいわゆる「吏」である。民は国民である。この言葉を十分に理解していればキックバックなどの下卑た問題は起こらなかった。政治家というものは市会議員から国会議員まで当選した時から選良と勘違いする。国会議員はグリーン車が乗り放題だ。

 自分の給料は税金からもらっているという正しい理解があれば、裏金にして香奠を配るなどという馬鹿げたことをしない。大体オリンピックでメダルを取っただけの人を選ぶ選挙民も悪い。

 河井継之助率いる長岡藩は中立の立場であったが西軍の軍監岩村精一郎が継之助の話を聞かなかった(小千谷談判)ので、やむなく東軍(奥羽越列藩同盟)についた。「民の為」と言いながら長岡の城下町を火の海にした。戊辰戦後、家を失った領民は継之助を恨んだ。墓石が削り取られた。群馬県にある国定忠治の墓はバクチ運に与ろうと削り取られた。継之助の墓は恨みにより削り取られた。長岡の人々は継之助を良く評価したり貶したり、時代によって評価を変えてきた。役所広司主演の「峠のサムライ」が放映されたばかりなので、今は評価されている時代かもしれないが。私は継之助の精神は小林寅三郎の「米百俵」に結実したものと思っている。戊辰戦争で敗れて貧窮のさなかに支藩の三根山藩から米百俵の寄贈があった。藩士に配ればそれぞれわずかな量で瞬間に腹の中に入り、何も残らない。そこで小林寅三郎は書籍を買い、国漢学校を作った。藩士の腹に入る米を教育に投資したのである。民の雇を実践したのである。

最後に長岡の人は「つぐのすけ」と呼ばず「つのすけ」と詠む。

(文責:岩澤信千代)