🗓 2024年02月17日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「臥しまろぶ」は喜怒哀楽の動作の一つです。特に平安時代には、強い悲しみを表現する際、「泣く」と一緒に用いられることが多かったようです。用例を調べてみると、上代の文献には見られず、『伊勢集』・『うつほ物語』・『蜻蛉日記』『源氏物語』などに用いられています。おそらく『伊勢集』の
 臥しまろびまどふ形見を見じとてや別れし衣捨てて来つらん(220番)
 が初出ではないでしょうか。『うつほ物語』に至ると、「女御の君、こゑも惜しみ給はず、ふしまろび泣き給ふ」(国譲下巻)をはじめとして用例が八例にも増加しており、『源氏物語』の四例よりもずっと多いことがあげられます。
 一方『源氏物語』は、「宮は臥しまろびたまへどかひなし。」(夕霧巻443頁)などとあります。これは落葉宮が母御息所の死と葬儀を嘆いている場面です。『うつほ物語』では女御の君が娘女一の宮の難産を悲しんでいましたが、ここでは高貴な内親王が「臥しまろ」んでいます。
 この「臥しまろぶ」という所作は、ただうつ伏して泣いているのではありません。「まろぶ」は「転」で、転げまわるという大げさな動作を伴うものです。ですから、女御や内親王といった高貴な女性にはふさわしくない所作のようにも思えます。
 というのも『源氏物語』の他の3例は、宇治十帖に用いられています(正編にはありません)。浮舟の入水を知った乳母や母君は、「いとゆゆしくいみじと臥しまろぶ」(蜻蛉巻)・「われもまろび入りぬべく」(蜻蛉巻)と悲しみを表出しています。さらに母君は薫の弔問を受けた際、「おはせましかばと思ふに、臥しまろびて泣かる」(蜻蛉巻)と、もう一度悲嘆を体で表出しています。
 もう1例は浮舟の出家を知った小野妹尼が、「臥しまろびつつ、いといみじげに思ひたまへる」(手習巻)と残念がっている例ですが、死ではなく出家だけに、母君に比べると悲嘆の度合いが低いようにも思われます。
 いずれにしても『源氏物語』では、すべて女性に用いられていました。『うつほ物語』には男性の例もあるので、これも『源氏物語』の特徴といえそうです。しかも宇治十帖の3例は、さほど身分の高くない女性ですから、「臥しまろ」んでも違和感はありません。そうなると落葉宮の用法は、みやびに反する異常な所作ではないでしょうか。だからこそ、悲しみの深さが強調されているのかもしれません。あるいは内親王故に、子供っぽさが残っていると見ることもできます。
 これに類する表現が「足摺り」でしょう。先の浮舟失踪において、乳母と母君は「臥しまろ」んでいましたが、それに対して浮舟の乳母子右近は、「足ずりといふことをして泣くさま、若き子どものやうなり」(蜻蛉巻)と対照的に描かれていました。この「足摺り」は女性に限らず、大君の死を目前にした薫にも、「ひきとどむべきかたなく、足摺りもしつべく」(総角巻)と使われています。これも高貴な薫にふさわしくない子供っぽい所作ですが、だからこそ大君を失くした薫の悲しみの深さが表出しているといえます。
 ここまできて、悲しみの原因に気付きました。「臥しまろぶ」の多くは、親しい家族の死に直面しての所作だったのです。だからこそ大袈裟と思われる表現になっているのでしょう。というより「臥しまろび」も「足摺り」も、もともとは死者を生き返らせる(あの世から引き戻す)蘇生儀礼だったのかもしれません。だから芝居がかっているのです。
 ところで、最初に「臥しまろぶ」の用例が上代にはないといいましたが、実は「こいまろぶ」という言葉が、『古事記』『日本書紀』『万葉集』『日本霊異記』に認められます。「こい」は「臥い」と表記されていますから、これは間違いなく「臥しまろぶ」と重なる言葉といえそうです。ところが平安時代に入ったとたん、「こいまろぶ」の使用が消え、代わりに「臥しまろぶ」(または「はひまろぶ」)が用いられているのです。あるいはこれは、単に訓読が変化しただけなのかもしれません。もしそうなら、上代の用例も加味して検討する必要があります。
 最後に用法の変化について付け加えておきます。原則として「臥しまろぶ」は悲嘆の身体表現ですが、平安後期の『狭衣物語』になると、狂喜乱舞するつまり喜びの表出という用法が登場してきます。また『今昔物語集』では演技としても用いられているので、用法の変化・広がりにも目配りが必要のようです。