🗓 2023年04月08日

明治10年の西南戦争が起こる前、特権を失った武士階級は貧困に悩んでいました。
一方では薩長出身の顕官は贅沢三昧我が世の春を謳歌していました。明治9年長州の前原一誠と共に政府転覆を図り会津藩士の永岡久茂などが蜂起しました。ところが一味にスパイがいたようで思案橋で捕獲されてしまいました。
首謀者の永岡久茂は獄死、中根米七は2年以上逃亡しました。
しかし、反乱罪の下手人探索の官憲追及は激しく喜多方市に潜んでいることが判明しました。時の会津若松警察署署長は旧会津藩士中条辰頼署長でしたが、戊辰戦争を一緒に戦い薩長の慢心を快く思っていなかったので同じ旧会津藩士である部下の巡査野村唯三郎に指示しました。
国事犯として逮捕するより武士らしく切腹する名誉を説いたのです。斗南藩が成立してまもないのに国家転覆の犯罪に旧会津藩士が絡んでいてはあらぬ嫌疑が旧会津藩にかかる恐れもあり、迷惑をかけられないという強い意志もありました。

中根米七は潔く一糸の乱れもなく武士の作法にのっとり熊倉村「上の墓地」で割腹自殺しました。唯三郎は警察官であり職責からすると逮捕が義務なのですが、あえて旧会津藩の同胞に武士の名誉を説いた姿にも感銘を受けます。
村人はその潔さに感銘を受け立派なお墓を建立しました。
たまたま隣村の大成農業サービス会長鈴木義則氏が熊倉出身でしたのでその話をしましたら現地を案内してくれました。

お墓の入口正面に堂々とした墓石が建っておりました。丁度桜爛漫で桜の木の真下に堂々と立っていたので熊倉の村の人々が一等地に建立してくれたのだと改めて 感動して帰ってきました。 武士の心には櫻花がふさわしい。
ちなみに野村唯三郎と縁戚の方が野村紀子さんで当会の会員になっておられます。
HPの文章を読んだ方から野村紀子さんの連絡先を知りたいと問い合わせがあり、携帯番号を本人の了解の上お知らせしたのです。近くお会いするそうです。野村佐兵衛という先祖が巡り合わせを可能にしました。お二人の曽祖父が兄弟だったのです。仲の良かった兄弟二人の書簡が野村紀子家に遺っています。

HPが役に立ってうれしい限りです。

 

大正5年11月26日に浅草今戸の称福寺(永岡久茂の埋葬寺)で行われた思案橋追善法要で山川健次郎が読んだ弔文を紹介します。
(悲劇の会津人:新人物往来社刊より抜粋)