🗓 2020年02月08日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

会津藩の記憶が薄れかけた頃、超大物が同志社英学校に転校してきた。明治20年のことである。それは誰あろう最後の斗南藩主・松平容大かたひろ(慶三郎)であった(当時は子爵の身分)。奔放ほんぽうな息子の将来を憂えた父の容保かたもりが、容大を同志社英学校に預けて鍛えなおしてもらおうとしたのである。
 その裏で山本覚馬達元会津藩士も動いたようだ。正式に山川浩から襄への依頼状も届けられた。その文面には、旧藩主はいまだ若年である故、宗教上の教養については特に新島先生の御薫陶を仰ぎたいと書かれていた。しかしこれは必ずしも事実を正しく伝えているとはいいがたい。何故ならこの時、容大は校則違反で学習院から退学処分を受けていたからである。
 旧会津藩士だった八重や覚馬は、その容大(殿様)を喜んで受け入れたのだろう。容大の教育係に指名されたのは、後に会津若松教会の牧師として活躍した金子重光(常五郎)であった。当事者である容大は、翌21年の正月に京都にやってきた。取りあえず寄宿舎に荷物を片付けた容大は、なんと正月休みを利用して早速大阪の色街(遊郭)で遊んできたというのだから、まさに豪傑である。
 この一件が同志社で問題視されないはずはなかった。2月になってそれが発覚すると、英学校の教師達は当然のように校則違反による退学を決定し、3月1日付けで容大は同志社でも退学処分を受けてしまった。旧藩主(子爵)といえども、同志社で特別扱いされることはないのだ。
 それに対して容大自身は自首届(反省文)を提出し、また旧会津藩関係の生徒達は、いまだ一度も同志社の教育や指導を受けていない時点での過ちなので赦していただきたい、という退学助命嘆願書を学校側に提出している。ひょっとすると覚馬が入れ知恵したのかもしれない。
 その甲斐あってか、秋学期に容大の再入学が認められた。もっとも容大が心を入れ替えて真面目に勉強したという話は残っていない。襄から薫陶を受けたという話も聞いていない。それよりも翌22年2月7日、父の容保から徴兵を免れるために容大を学習院へ転校させる旨の書簡が届いた。その文面は次の通りである。

一書申進候。厳寒之節先以御清栄奉賀候。陳者容大事厚御世話ニ相成、段々教育ヲ蒙候段、深謝入候。然ル処今般徴兵令之次第切迫、学習院エ入塾之事ニ相成、中山迎ニ差遣候。委細之事情ハ同人より御聴取可被下候。先ハ此段早々申入候。不宣

二月七日 容保

    襄殿

 結局、すったもんだの挙句、容大はわずか半年在学しただけで同志社を退学してしまった。半年間の同志社在学が、容大の人生に大きな影響を及ぼしたとは到底考えられない。またここに「学習院へ入塾」とあるが、その頃学習院で容大の処分が緩和されたらしい。ただし容大の最終学歴は、東京専門学校(後の早稲田大学)卒業となっている。
 なお山川浩から届いた手紙は大切に保管され、後に八重から井深梶之助に贈呈(返還)されている。井深はそれを弟の山川健次郎に渡したようだが、現在は所在不明になっているとのことである。この折、八重や覚馬は容大とどのように交流したのか、知りたいところである。