🗓 2020年02月15日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

イギリスの女性探検家イザベラ・バードが、『日本紀行』の中で八重や同志社女学校について書いていることを知った。これを参考にして、あらためて『日本紀行』の記事を紹介したい。
 1878年(明治11年)9月16日、常磐井殿町(二条家跡)に女学校の校舎が新築され、そこで新学期が始められた。その1ヶ月後の10月に、イザベラ・バードが京都を訪れ、ギューリック夫人の斡旋で、2週間ほど女学校の二階に宿泊した。そのことは『完訳日本奥地紀行4』(平凡社)の「第52報キョウト・カレッジ[同志社英学校]」に詳細に報告されている。まず京都に二週間滞在したことが、

私は二週間前にここ[二条さん屋敷、同志社女学校]にギューリック夫人とやってきた。一人で〈宿屋〉で数日過ごすつもりにしていたのだが、着いてみるとここで世話になる手筈がすでに整っていた。そしてこれまでの二週間を、私の世話をしてくれる女性と大変多くの名所[挿絵]を見物したり、英語を話す野口氏とあちこちを訪ねながら楽しく過ごしてきた。

(77頁)

と記されている。イザベラ・バードが宿泊したのは、完成したばかりの同志社女学校(NIJYOSAN YASHIKI)だった。その建物については、

ここ[二条さん屋敷]は女子のためのアメリカン・ミッションスクール[同志社女学校]で、和様折衷のそのとても大きな建物には〈障子〉のかわりにガラス戸がはまり、〈雨戸〉はない。このため非常に冷える。

(79頁)

と述べている。我々日本人の目に女学校は西洋風建築に見えるが、バードはガラスを用いた「和洋折衷」と述べている。なおここにある「私の世話をしてくれる女性」については、

ここで彼女の世話をした女性とは女学校の舎監をしていた山本佐久つまり山本覚馬・八重兄妹の母、すなわち新島襄の義母だった。『バード日本紀行』が充てる「おかみ」という訳語では、バードの旅は正しく理解できない─女将とは宿屋の女主人のことである。佐久なればこそ、バードを世話し、「大変多くの名所」に案内した。

と解説されている。これによればバードは、佐久とも親しくしていたことになる。
 続いて当時の同志社女学校については、

少女の定員は50人だが、今のところは18人に制限されている。教頭のスタークウェザー嬢しかいない上に、アメリカ人の助手も欠いたままになりそうなためである。学校では実務教育も行っている。スタークウェザー嬢は少女たちが日本の礼儀作法とよいしつけをきちんと身につけることにこの上なく気を配っている。

(79頁)

と記している。ここでバードはスタークウェザーを教頭と記している。この時期まだ教員や生徒数が少なく、二階に余裕(空き部屋)があったので、滞在できたのだろう。日本流の礼儀やしつけというのは、スタークウェザーではなく舎監であった佐久や八重が教えていたのではないだろうか。
 またバードは、新島邸にも招かれている。

昨日[10月29日]、門徒宗[浄土宗]という、仏教の一宗派で最も大きな影響力をもつ僧侶赤松[連城]とのとても楽しかった会談を終えた私は、夕刻、軽い食事に招かれていた新島夫妻の家を訪れた。和風のすてきな家だった。軽食はテーブルに用意されており、私たちは椅子に座った。テーブルの上にまことに美しくみごとな磁器がある点を除くと、外国家庭で出される食事や茶と何ら変わらなかった。

(85頁)

 ここでもバードは、新築された新島邸を「和風」としている。もちろん中は洋間であり、テーブルにお茶が載せられ、椅子にすわって軽食やお茶をいただいている。ここでバードは八重のことを、

妻[八重]は女学校[同志社女学校]で裁縫を教えており、和服を着ている。

(86頁)

と評していた。これによってこの時八重が和装であったこと、女学校で裁縫を教えていたことがわかる。おそらく結婚当初の写真のような和服だったのだろう。イザベラ・バードの証言は、明治11年の女学校ならびに八重の動向を知ることのできる貴重な資料である。