🗓 2020年02月22日
同志社女子大学特任教授
吉海 直人
吉海 直人
風間健宛の八重書簡(昭和4年12月16日付)を紹介したい。
【翻刻】
昭和之年も今少しに相成⁄ました。日々御機嫌よく御つとめ
被遊御目出度御よろこび入申上候。⁄実に実に御もふしわけもなき
御ぶさたに打過、さぞさぞ心なき⁄ものと思召候半(と)存つづけ居ました。
御ゆるし被下度。当なく(つ)以来とか⁄く右之手がいたみ、いとど筆不精が
なをさら。東京にもとふか前に⁄五十日目によふよふ文を遣しました。
次からつぎといろいろ之用事が⁄出来、昨としあたりとは大分から
だの工合が悪敷鳥渡外出致⁄ますとつかれ、よほどくつ(苦痛)に相成ま
した。九月東京に参り二十日斗⁄居ましたが、とかく雨天がちにて
松平様にも御伺ひ致不申。孫の⁄はか参り其外友人の所に一度
かへ(い)物に一度、後は家にぐづぐづ⁄暮して帰京。度々貴兄より
御手紙真に難有、みかん山に御出⁄は実に実にうら山敷よだれ
たらたらに御座候。当暮はなん⁄といたしましたか。いやら敷程
あたゝかにて所々参り候には大⁄仕合。今に寒気が参るだらふと
存居。明年の黒谷会津会を⁄楽しみ待居。貴兄も御なつか敷
思召候半と存居ます。先は御伺ひ⁄まで。早々かしく
十二月十六日
老ぬればふでとることも物うくて⁄おもふかたにも音づれもせず
八重子
風間様
尚々 どふぞ御身御大切に被遊ませ
昭和之年も今少しに相成⁄ました。日々御機嫌よく御つとめ
被遊御目出度御よろこび入申上候。⁄実に実に御もふしわけもなき
御ぶさたに打過、さぞさぞ心なき⁄ものと思召候半(と)存つづけ居ました。
御ゆるし被下度。当なく(つ)以来とか⁄く右之手がいたみ、いとど筆不精が
なをさら。東京にもとふか前に⁄五十日目によふよふ文を遣しました。
次からつぎといろいろ之用事が⁄出来、昨としあたりとは大分から
だの工合が悪敷鳥渡外出致⁄ますとつかれ、よほどくつ(苦痛)に相成ま
した。九月東京に参り二十日斗⁄居ましたが、とかく雨天がちにて
松平様にも御伺ひ致不申。孫の⁄はか参り其外友人の所に一度
かへ(い)物に一度、後は家にぐづぐづ⁄暮して帰京。度々貴兄より
御手紙真に難有、みかん山に御出⁄は実に実にうら山敷よだれ
たらたらに御座候。当暮はなん⁄といたしましたか。いやら敷程
あたゝかにて所々参り候には大⁄仕合。今に寒気が参るだらふと
存居。明年の黒谷会津会を⁄楽しみ待居。貴兄も御なつか敷
思召候半と存居ます。先は御伺ひ⁄まで。早々かしく
十二月十六日
老ぬればふでとることも物うくて⁄おもふかたにも音づれもせず
八重子
風間様
尚々 どふぞ御身御大切に被遊ませ
これは風間健氏(久彦の息)所蔵の八重自筆書簡の一部である。風間久彦は会津若松出身で、旧制会津中学・京大卒の秀才であった。在学中、京都会津会の学生幹事として、天野謙吉(医学部学生)と一緒にしばしば八重を訪問し、親しく接していた。卒業後、愛媛県の宇和島高等女学校の数学教師として単身赴任したが、その後も八重との手紙のやりとりは続いていた。
この書簡からは、八重の体調が悪かったこと、9月に上京していること、その間に亡くなった孫(襄次・正)の墓参りをしたこと、松平様(旧藩主)を訪問できなかったことなどがわかる貴重な資料である。恐らく久彦から赴任先でみかん狩りしたことを知らせる手紙が届いたのであろう。その返事に「みかん山に御出は実に実にうら山敷よだれたらたらに御座候」とある点、八重の食欲とユーモアを読み取ることができる。末尾の「老ぬれば」歌もここにしか記されていないので貴重である。
ここにある八重書簡は、風間家で大切に保管されてきた。一方の久彦書簡はどうなったのであろうか。八重の遺産は広津初に相続されているので、広津家に保管されている可能性があるのだが、昨年初の息子である旭氏の奥様(みどりさん)も亡くなり、連絡が途絶えてしまった。
幸い風間健氏が本会に入会された。今年6月14日の顕彰会の展示に八重の書簡を出してくださるとのことなので、今から楽しみにしている。