🗓 2020年02月29日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

八重にとっての昭和3年は、彼女の人生を考える上で看過できない年だった。最大のできごとは、9月28日に行われた勢津子姫(松平容保公の孫)と秩父宮殿下との御成婚である。これによって会津藩は60年ぶりに朝敵・逆賊の汚名を晴らすことができたのだから、八重のみならず、旧会津藩の人々が待ち望んでいた慶事だったと言える。
 八重はその祝賀会に出席するため、84歳の高齢であるにもかかわらず、列車の2等席に乗って上京している(切符を買ったのは風間久彦)。それに合わせて、平石弁蔵著『会津戊辰戦争』の増補改訂4刷が企画され、「戦後の断片」に掲載すべく懐古談の聞き取り調査が行われた。その本の説明書きの末尾に八重のことが、

上京後席暖かなるあたはず明日は女子大学に出講の予定なりと、(483頁)

と記されている。ここに出ている「女子大学」は、日本女子大学のことである。幸い日本女子大学が出している「家庭週報」965号に、その折の八重訪問の記事が掲載されており、それを見ると来校日が10月5日であったことがわかった。
 そうなると、聞き取りは前日の4日だったことになる。9月28日の御成婚から一週間が経過しており、八重は東京に長逗留していたことまでわかった。八重が定宿にしていたのは、広津友信・初子(八重の養女)夫妻の家(巣鴨家庭学校)である。
 ところで八重は、何故わざわざ日本女子大学を訪問したのだろうか。それについて「家庭週報」の書き出しには、

10月15日、母校に於ては眞に思ひ設けなかつたところの客人をお迎へしたのであつた。それは麻生校長を初めつつみ幹事、松本、服部両教授等の教への父として敬慕さるる同志社総長故新島襄先生の未亡人八重子刀自の来訪であった。

と記されている。先の「戦後の断片」には「出講の予定」とあったが、こちらには「思ひ設けなかつたところの客人」とあるので、日本女子大学側からの要請ではなかったことになる。
 続いて「今はなき人のつちかひによつて結ばれた教へ子の実のりを尋ねられた」と訪問の意図が述べられている。「今はなき人」とは、もちろん夫・新島襄のことである。襄の教え子達が日本女子大学で教鞭を取っているのだから、同志社と日本女子大学は、長い歴史と教育理念を共有していたのだ。少なくとも八重はそう思っていたようだ。
 四方山話は尽きず、昼食・記念撮影の後、同志社出身の麻生校長から八重に、学生に何かお話をとの急な依頼が飛び込んできた。八重は「いやいや、もう私は脳がなくなつてゐるのですから」と辞退したものの、講堂に集まっていた一年生に対して堂々と講話を行っている。幸い話の内容についても「家庭週報」に掲載されており、それを見るとここでも『日新館童子訓』の序文を長々と暗誦していた。これは八重の十八番だったのだ。
 八重は学生に、外面ではなく内面を飾ってほしいと訴え、

髪容は鏡に向つて直すことは出来ても、心の歪みは直らないのであります。それは聖書聖人の心に照した時に初めて直されることであると信じて居ります。如何に顔を美しくしても、洗へば落ちて元のままとなるではありませんか。決して幾度洗つても洗つても落ちないものは美徳であります。何卒この世の先駆者である若い皆様方は、美徳を以て鏡としなさることを、心からお願ひ致します。

と、なんと「美徳」の話までしていた。これには驚いた。ちょうど一ヶ月ほど前、八重は「美徳以為飾」と書いて、会津高等女学校に送っていたからである。時期的に考えると、八重の脳裏にまだ「美徳」という言葉が焼き付いていたのだろう。この言葉は『新約聖書』ペテロの手紙一・3章3節~4節の、

あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた内面的な人柄であるべきです。

を言い換えたものだと思われる。
 今回、「家庭週報」の発見によって、八重が「美徳」のことを日本女子大学でも話していたことが明らかになった。昭和3年の八重にとって、「美徳」はキーワードと言ってよさそうである。なお「家庭週報」には「鏡としなさる」とあるが、これは「飾りとしなさる」の聞き間違いではないだろうか。