🗓 2020年03月07日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

 日本人に親しまれている百人一首には、膨大な数の「異種百人一首」という類書(パロディ)がある。これらはすべて百人一首の人気が生み出した副産物であった。当初は純粋に秀歌撰として編まれていたが、どうしても百人一首以上のものができないということで、途中からベスト百物(ランキング本)に変質している。それもまた百人一首の知名度があってこそ可能であった。
 そういった「異種百人一首」に目を通していたところ、『会津百人一首』が2種類出版されていることをつきとめた。それとは別に、『愛国民権演説家百詠選上』(明治15年12月)という本の終わりの方に、山本覚馬が出ていることを発見した。覚馬が演説家としてどの程度名を知られていたのかわからないが、まずはそこに書かれていることに目を向けてみよう。

古昔むかし武田信玄の臣山本勘助は独眼にして能く軍事の参謀となり毎戦利を得ざりしことなかりしはに天賦の人才と謂ふし。今又此山本覚馬なる人は旧奥州会津の城主松平肥後守の臣にして両眼共に失明せし曚人なれども藩侯に従ひ京都に守護職たりし時軍謀密策を廻らし常に君侯を輔佐し時に王政維新の春に際し暫く捕はれ幽閉せしも松山一郎藤田賢之助両人の周旋にて特典の官許容を得て後西京に在りて土民に文明の理を説き商工の事業を勧奨して専ら開化の道を開き勉めて頑固なる商事を説破せし通商富国の益を主張せし人なり。

はじめに武田信玄の軍師として知られている山本勘助が紹介され、それに続いて山本覚馬の事績が語られている。これは姓が山本で共通していることから、両者の血縁関係が想定されているのだろう。要するに覚馬を勘助の子孫にしているわけである。文飾とすれば勘助は独眼、覚馬は両目とも見えないという対比が行われていることになる。さらに二人とも参謀として君主を補佐したという共通点があった。
 こういった「異種百人一首」物には、作者の肖像と漢詩や和歌が掲載されるのが常なのだが、覚馬の場合はそれがなく、「眼くろうして能く富強之事を説く」と記されているだけである。もしここに覚馬の和歌あるいは漢詩が掲載されていれば、それ自体貴重な資料となったはずである。恐らく覚馬ほどの人物なら、漢詩や和歌の一つや二つは詠んでいるはずである。
 探してみたところ、『山本覚馬伝』に、

渡るとも賀茂の川水清ければまたき影さす心すずしき

という歌が掲載されていた。これは薩摩藩に捕えられた時のものとのことである。また松本健一氏『山本覚馬』には、

自為国家遇艱難  みずから国家の為に艱難かんなんにあう
従容処分意還安  従容しょうようたる処分、意また安んず
白咲亦有綈袍贈  白咲また綈袍ていほう(綿入れ)の贈りものあり
当日熟為范叔寒  当日たれぞ范叔はんしゅく(晋の士鞅しおう)の寒とならん

という漢詩が紹介されている。これは薩摩藩邸に捕われていた折のものとのことである。「白咲」とは白梅のことであるが、新島襄の寒梅の漢詩とも符合している。
 さて本書に書かれている内容だが、覚馬が会津藩士だったこと、失明したこと、京都守護職となった松平容保を補佐したこと、戊辰戦争の折に幽閉されたこと、維新後は西京(京都)の復興・繁栄に尽力したことなどが記されている。それはほぼ正しい記述だと思われる。
 ただし覚馬が「管見」を書いたこと、それが薩摩藩(新政府)に認められて京都府顧問になったこと、後に府議会議長・商工会議所会頭を歴任したことなど、具体的な事績は何一つ掲載されていない。それは本書の出版が早かったからかもしれない。しかし肝心の新島襄と協力して同志社を設立したこと、キリスト教に理解を示したことにも触れられていない。京都の近代化に尽力した人物であることさえわかれば、それ以外のことは不要なのだろうか。
 それでもまだ疑問が残る。肝心の演説家としての活躍が書かれていないからである。これを読んでも、覚馬が演説家としてどのように優れていたかはわからない。そうなると何故本書に覚馬が取り上げられているのか、それさえも不明瞭ということになる。
 なお固有名詞として、松山一郎・藤田賢之助という二人の名前があげられているが、この二人がどんな人物なのかもわかっていない。覚馬の事績に関しては謎だらけなのである。