🗓 2020年03月14日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

 NHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公・新島八重のことを考える上で、当時学生だった若き徳富蘇峰の辛辣しんらつな悪口を無視することはできそうもない。有名な「ぬえ」という八重のあだ名は、この蘇峰が進上したものだったからである。そのことは蘇峰自身、

新島襄先生夫人の風采が、日本ともつかず、西洋ともつかず、いはゆるぬえのごとき形をなしてをり、かつ我々が敬愛してゐる先生に対して、我々の眼前に於て、余りになれなれしきことをして、これも亦しゃくにさはつた。

(『蘇峰自伝』)

と書き残している。こういった蘇峰の八重攻撃は、一つには九州男児的な男尊女卑の考えがあったからであり、もう一つは蘇峰の新島襄敬愛の裏返し(反動)だったと考えられる。敬愛してやまない襄先生に対して、妻八重の不遜ふそんな接し方が癪に障ったというわけである。また八重の服装の奇異さについては、最初に出会った時から蘇峰の目に焼き付いていた。

祈祷きとう会で予の記憶に残るものは、日本部屋の中に小さきストーブを据えてあつたこと、その集会の中に、日本服に靴をき、西洋夫人の帽子を冠りたる、肥胖ひはんなる婦人のあつたことである。この婦人が予と少からざる交渉を惹起じゃっきしたる、新島先生夫人であることは、後からわかつた。

(『我が交遊録』)

「少からざる交渉」が何を意味しているのかわかりにくいが、「肥胖ひはんなる婦人」という形容を含め、2人の間には最初の出会いからして因縁めいたものがあったようだ。しかし敬愛する新島襄が亡くなった時、蘇峰は八重に対して積極的にわびを入れ、和解を申し入れている。

先生が最後の息を引取るや否や、予は直ちに先生の夫人を別室に招き、「自分はこれまで貴女あなたに対して少なからざる無礼を働いた。しかしそれは正直のところ、ただ先生を思ふがためであった。先生亡き今日は、これより不肖ながら予が御身に先生に対する態度をもって接するであらうから、こひねがはくは予の心を諒とし、何事にあれ遠慮無く御相談ありたし」と。爾来じらいその通りに実行し、夫人が九十歳に近きまで、極めて親しく、而して老夫人の遺命によって、その墓の銘も予これを書し、いまは京都若王子山頭に先生の墓と並んでゐる。

(『蘇翁感銘録』73頁)

蘇峰においては、襄先生あっての八重批判だったのだ。その襄が亡くなった今、八重は唯一の襄の形見となった。だから蘇峰は、以後八重を襄だと思って、終生(42年間)息子のように八重に仕えたのである。やはり蘇峰はたいした男だった。八重も一方的だとは思いながらも、次第に蘇峰を頼るようになり、蘇峰からの送金を有難く受けとっているし、何かと相談にも乗ってもらっている。
そして最終的に蘇峰は八重のことを、

新島夫人の美点を挙ぐれば、第一健康であつたことである。新島襄その人は、帰朝以後は半病人であつたが、夫人は病気と云ふことはほとんど誰も聞かない程の健康者であつた。第二には、性格が陽気で、すこぶる快活でつった。第三は公共の為に働いた。

(『三代人物史』)

と分析・評価している。蘇峰は、健康と陽気な性格と公共奉仕の三つを八重の美点としてあげているが、これは十分納得できる見解であろう。さらに蘇峰は、「彼等に取って一つの不幸は、子供の無きことであった」(同)と残念がっている。また八重を「日本女性の誇りとするに足る一人であつた」とまで評価している。
 最初に悪口を言った蘇峰こそは、最終的にもっとも良き八重の理解者となっていたのである。だからこそ八重は、蘇峰に自らの墓碑銘を書いてくれるように頼んでいるのだ。