🗓 2020年02月01日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

今回は八重と食欲に挑戦してみたい。とはいえ、八重の人生を丹念に調べてみても、八重が大食漢だったという資料は簡単には見つからない。特に会津時代(人生の前半)は、力持ちだったということはわかっても、幼少の頃から肥っていたかどうかさえもわからないのである。襄と結婚した頃(30歳)の写真を見ても、そんなに肥っているようには見えない。
 だから最初は、八重は襄と結婚したことで肉と甘いものを日常的に口にするようになり、そのためみるみる肥ったのではないかと想像してみた。それにしても、新島夫人時代に八重が大食漢だったという資料は見当たらない。市販されている多くの八重本を見ても、八重の食欲に言及しているものはなさそうである。
 もっとも新島襄の『漫遊記』の1888年7月の記事に、「八重の脂肪を減ずるの法、三十日間試行すべし」と記されている。襄は八重にダイエットさせたかったようだ。それに関連して、大久保真次郎が八重のことを「三十八貫五百ある彼梅ヶ谷の姉様より則余り軽くもあらぬ」と揶揄している記事(上毛教界月報43)があげられる。
 ところが最晩年に至って、八重の大食漢ぶりが俄に浮上している。たとえば八重の「病状経過並に臨終」記事を見ると、

斯くて(昭和7年)4月25日米寿の茶筵を太秦なる大沢別邸に催されたる頃より米飯を取り、食事大に進みたり。然る所従来発病の原因は常に食量過多、歩行度を過ぎたるより起こる疲労に在りしが、

(『追悼集Ⅴ』55頁)

云々とあった。疲労も重要であろうが、ここでは「従来発病の原因は常に食量過多」とあるところに注目してみたい。これは決して冗談で書かれたものではないので、この記述こそは八重の大食漢ぶりを示す一等資料ということになる。
 ついでに「米寿の茶筵」とあることにも留意したい。八重は亡くなる直前の6月11日と13日に茶筵に参加している。その茶筵から「帰宅後嘔吐数回激烈なる腹痛あり」(同頁)というのだから、あるいはその茶筵でも食べ過ぎたのではないだろうか。晩年に八重が茶道に熱中したのは、単に茶の道を究めていたというだけでなく、本当のところは茶会に付きものの懐石料理に惹かれていたから、と見るのは考えすぎだろうか。
 この記事と符合するのが『徳富蘇峰』という本の記事である。蘇峰自身の著作には見られないが、蘇峰の顧問弁護士だった早川喜代次氏がまとめた『徳富蘇峰』には、

あくまで健啖家けんたんかで付近の仕出屋の「石吉」からよく大きな弁当を取った。果物が大好きで蜜柑・梨・イチゴ等は人の三倍も食べた。氷水も一度に三杯は少ない方であった。友の家でパイナップルを食べ過ぎ腹をこわして大騒ぎしたこともあった。

(477頁)

と記されていた。あまりにも内容が面白すぎて、思わず吹き出しそうになった。この記事はそのまま信用できそうもない。それにしても「大きな弁当」・「人の三倍」・「一度に三杯は少ない方」とあるのだから、八重が大食漢だったことは蘇峰も承知していたのだろう。
 もちろん八重が果物好きだったことは、他にも証拠がある。例えば昭和4年12月6日の風間久彦宛自筆書簡には、

みかん山に御出は実に実にうら山敷、よだれたらたらに御座候。

と記されている。これは愛媛県の宇和島高等女学校の数学の教師として赴任した久彦(京都会津会会員)からみかん狩りに行ったという手紙が届き、その返事として八重が書いたものだが、「よだれたらたら」というのはすごい表現である。
 以上、少ない資料ではあるが、八重は食べ物には人一倍関心があったとは言えそうである。やはり八重は大食漢だったとしたい。