🗓 2020年01月25日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

襄が亡くなった年の4月26日、八重は佐野常民つねたみが創始した日本赤十字社の正社員になっている。その役員には大山捨松の名もあがっていた。当時の看護婦の地位は低かったので、その地位向上と日赤の知名度アップが当面の目標であった。その機会は、皮肉なことに1894年(明治27年)の日清戦争の折に訪れた。戦争によって看護婦の需要が一気に高まったからである。それはクリミア戦争におけるナイチンゲールも同様であった。
 八重は看護婦たちを統括する篤志看護婦取締りとして、大本営のある広島の陸軍予備病院で11月から4ヶ月間、働いている。明治28年の1月30日、従軍先の広島市仲町53番地の宿舎(八畳四間)において雑誌の取材を受けた八重は、学校教育における看護体験の重要性を、

 新島夫人も亦特に余に告げて曰く、「他日人の妻母たらんとする女学生諸子は何卒看護の片端なりと心得居られたし。嘗て京都市の篤志看護婦会に於て月一回宛学習せし事ありしに、暫くして会員方の話を聞くに、皆家族の救護に大効ありしを感謝し居られたり。然れば一週間何度として一年以上も修められなば、可成に役立つ丈を学ばるべし。而して其効は実に一家の幸福児孫の健全を来すべし。願はくは全国の女学校が進んで斯学を課程中に入れられん事を」と願ふに之迄女学校が此学と術とを等閑に附せしは寧ろ不注意の罪にして、今日こそ之を改むるの時期なるべし。完全の看護婦学校を興し得ば頗る可なり。官位の看護婦術が全国至る所の諸学校に置かるれば、愈々いよいよ可なり。若し夫れ此二者にして能はずとせば、願はくは各地の女学校のみに於てなりとも看護術の加へられん事実に切実に堪へざる也。

(粟屋七郎氏「日本の黄鶯嬢」女学雑誌407・1895年2月)

と説き、看護学を女学校の学科中に加えるべきことを主張している。これは今の大学でも通用しそうである(現在、同志社女子大学には看護学部が新設されている)。
なお八重達は負傷兵のみならず、伝染病隔離病棟の患者も看護も任されていたらしく、従軍中に伝染病に感染して亡くなった看護婦が四名もいた。そういった功績が認められ、1896年(明治29年)に八重に勲七等宝冠章が授与されている。この宝冠章は民間女性のための勲章で、非常に名誉なものだった。それについて「女学校期報」8には、

 特別会員新島八重子は去十二月廿六日叙勲七等宝冠章七拾円下賜、且つ赤十字社特別会員となられたり。是れ二十七八年の役広島衛戍えいじゅ病院に於る御働によれるなり。

と記されている。この勲章によって八重は、新島襄の妻以上の知名度を手に入れた。
 その十年後、1904年(明治37年)に日露戦争が勃発すると、翌明治38年に八重は大阪の予備病院で2ヶ月間(4月10日まで)、大阪市東区京橋2丁目48番地の宿舎に寝泊りして、再び篤志看護婦の監督として昼夜を問わず働いている。今回は看護師としても働いたことだろう。八重はその折のことを、

 先日も花を観に行かぬかと勧めて呉れる人がありましたが、傷病者の事を思ふと少しもそんな気は起りません。外へ出るならば只教会へ行って此人等の為に慰安を祈るより外の考えはありません。

(「女学世界」5―8・1905年6月)

と述べている。ちょうど花見のジーズンだが、八重は花見に行く暇があったら教会へ行って、傷病者の慰安を祈りたいといっている。八重はやはりクリスチャンだった。
 そういった従軍の功績によって、1906年4月に八重は民間女性としては最高の勲六等宝冠章を授与された。まるで「日本のナイチンゲール」である。という以上に、八重の人生は鶴ヶ城籠城以来、兄覚馬の介護・夫襄の看病そして篤志看護婦と、介護の一生でもあったといえる。ただし八重は、懐古談では看護婦としての体験談をほとんど口にしていない。
 なお2016年の熊本地震により、ジェーンズ記念館が全壊し、二階の日赤記念館(博愛社)も大きな被害を受けた。一刻も早い復興・再建を願うばかりである。こういった看護師としての八重の後半生も、十分ドラマ化できるのではないだろうか。