🗓 2020年01月18日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

札幌の北海道立文書館にある川崎尚之助の裁判記録が発見・報道された。それによれば、斗南で藩士達の飢えと困窮を知った尚之助は、それを打開するために明治3年に柴太一郎らと函館に渡り、外国との大豆と広東米かんとんまい(外米)の先物取引に手を染めたことがわかる。ところが仲間(斗南藩商法掛)と思っていた米座よねくら省三に騙され、手形を横流しされたことで、米が入手できなくなってしまった。そのため先物取引は契約不履行となり、英国人のブリキストンとデンマーク人のデュースと二重の損害賠償の訴訟(国際裁判)が生じたのである。
それは明治4年のことだった。デュースからの詐欺罪による損害賠償の訴訟について、尚之助は250両もの支払いを命じられている。しかし当時の斗南藩にそれだけの賠償金を支払う余裕はなかった。やむなく藩(山川大蔵・辰野宗城)は尚之助を切り捨てた。尚之助もまた斗南藩とは無関係に自分が勝手にやったと主張し、一人で罪を被っている。それがわかる文書が、「開拓使公文録」(北海道立文書館所蔵)に残っていた。

私義一昨午年十月中爰元着港之みぎり丁抹国
デユーズ外亀屋武兵衛ト廣東米拾五万斤取組
申候所右者畢竟ひっきょう斗南藩ヨリ穀配之命令
ハ更ニ無之候得共多人数之飢餓傍観難
黙止もだし)ヨリ全ク自己之存意ニ任セ取組申候右御尋
ニ付此段申上候以上
           元斗南藩
  壬申六月       川崎尚之助
    外務 御役所

 尚之助は私利私欲ではなく、藩士が飢えているのを傍観できず、なんとか食料を調達しようとして函館に渡った。結果的には失敗しているものの、こんな立派な人をこのまま埋もれさせておいていいはずはない。朝敵という会津藩の汚名も既にそそがれているのだから、今度は尚之助の汚名を雪いでもらいたい。
それだけではない。それ以上に奇妙なことが浮上してきた。この事件に関しては、これまで柴太一郎の美談として語り継がれてきた(『ある明治人の記録』)。そのため尚之助の存在については、一切捨象されている。しかし裁判記録にはっきり尚之助の名前が記載されているのだから、尚之助を加えて書き改められてしかるべきだろう。
廃藩置県は明治4年7月14日なので、あるいはこの裁判と連動して、尚之助は会津藩から除名・排除(抹殺)されたのかもしれない。もしそうなら、尚之助の汚名を雪ぐという以上に、藩士を見捨てた会津藩そのものが厳しく問い直されることになる。ある意味「八重の桜」は両刃もろはの剣なのだ。なお尚之助の命日についても、北海道立文書館に裁判記録の写しが残っていた。

    青森縣士族 川崎尚之助
右之者兼而御届ケ申上候通り病気ニ罷在候処午後三時頃死去仕候仍是即刻御達シ申
上候也
    青森縣士族 根津親徳
三月廿日  開拓使御中

 亡くなった場所は、東京医学校の病院(現三井記念病院)である。これによって尚之助は3月20日に慢性肺炎で亡くなったことが明らかになった。尚之助は被告人のまま亡くなっていたのである。八重と離別したことで身よりもなく、斗南藩からも見放された尚之助の亡骸なきがらは、無縁仏として葬られたことだろう。
「八重の桜」の尚之助も立派だったが、新たにわかった裁判を含めた尚之助の生き様を、ドラマに仕立ててはもらえないだろうか。