🗓 2020年01月11日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

八重と襄がどのように出逢い、そして結婚に至ったのか、よくわかっていない。ただ八重の回想録(『新島八重回想録』)の中に、襄との不思議な出逢いが語られている。まずはその八重の証言に耳を傾けてみたい。

 最初の出逢いは1875年(明治8年)の4月か5月のことだった。
 私はゴルドンさんのお宅へ、聖書を習いに行って居りました。ゴルドンご夫妻は、病気のため京都に来て居られたので、木屋町の小さい家の座敷を借りて居られました。或る日のこと、何時もの通りゴルドンさんのお宅へ、馬太伝を読みに参りますと、ちょうどそこへ、襄が参って居りまして、玄関で靴を磨いて居りました。私はゴルドンさんのボーイが、ゴルドンさんの靴を磨いているのだと思いましたから、別に挨拶もしないで中に通りました。ところが暫くすると、ゴルドンさんの奥さんが、「新島襄という人が来ているから紹介しましょう」と言って、襄に会わせて下さいました。(45頁)

八重は覚馬の勧めもあって、宣教師ゴードンから英語で聖書を習っていた。ある日のこと、八重がゴードン宅を訪れると、玄関で靴を磨いている男性を見かけた。しかしその時は、そこで雇われている下男ボーイかと思って挨拶もしなかった。後になってゴードン夫人から襄を紹介されたのだが、見ると先ほど靴を磨いていた男性だった。八重の態度はかなり横柄に見えるが、それが当時の武家の娘の躾なのだろう。2人はこのようにして出会った。

続いてその年の夏の暑い日、山本家の中庭で2人はさらに劇的な出会いをする。
 私はあまりの暑さに耐えかねて、中庭に出て、井戸の上に板戸を渡してその上で裁縫をして居りました。その時ちょうど、襄が兄の許へ遊びに来て「妹さんは大危ないことをして居られる。板戸が折れたら、井戸の中へ落ちるではありませんか」と注意しました。兄は「妹はどうも大胆なことをして仕方がない」と話しました。その時、襄は槇村さんから聞いた話を思い出してもし私が承諾するなら婚約しようかと、その後、私の挙動に目をつけるようになったそうであります。(68頁)

襄は井戸の上に板を渡し、その上に座って涼しげに縫い物をしている八重を見かけてびっくりした。すぐに兄の覚馬に向かって、妹さんは大変危険なことをしていると注意すると、覚馬は「妹はどうも大胆なことをして仕方がない」と笑って済ませた。この八重の大胆な行動が、かえって襄の心をとらえたというのだから、男女の仲というのは面白いものである。
ではどうして襄は八重の大胆さを見て、結婚したくなったのだろうか。その前に、話の中に出ている「槇村」のことが気になった。それは次のようなことである。

或る折、槇村さんは襄に向って、「あなたは細君を、日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか」と尋ねられました。襄は、「外国人は生活の程度が違うから、やはり日本婦人をめとりたいと思います。しかし亭主が、東を向けと命令すれば、三年でも東を向いている東洋風の婦人はご免です」と答えますと、「それならちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹で、今女紅場に奉職している女は、度々私のところへ来るが、その都度、学校の事について、いろいろむつかしい問題を出して、私を困らせている。どうだ、この娘と結婚しないか、仲人は私がしてあげよう」と言われたそうです。しかしその時はまだ襄は私のことを特に気にとめて居りませんでした。(67頁)

以前、襄は学校設立の協議をしていた京都府の槙村正直から、「あなたは妻を日本人から迎えるのか、外国人から迎えるのか」と尋ねられたことがあった。襄が「日本の婦人をめとりたいが、亭主が東を向けと命令すれば、3年でも東を向いているような東洋風の婦人はご免です」と答えたところ、「それならちょうどいい婦人がいる。山本覚馬の妹で、今女紅場に奉職している女だ」と八重のことを話し、「どうだこの娘と結婚しないか。仲人は私がしてあげよう」と、八重との結婚を積極的に勧めた。八重にとってはずいぶん失礼な紹介である。この時襄は八重のことをさほど意識していなかったのに、井戸の一件があってからは八重との結婚を真剣に考えるようになったというわけである。もちろんこれは八重の一方的な見解なのだが。
この三つの話を総合すると、八重は大変なお転婆だが、襄はそれ以上の変わり者に見えてしまう。一体、襄は八重のどこに魅力を感じたのだろうか。また八重にしても、その襄のどこに惹かれたのだろうか。縁は異なものというが、特に相手のどこに惹かれたというのではなく、お互いの利益に適うパートナーということで結婚したのかもしれない。