🗓 2020年01月04日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

やっとのことで鴨沂おうき会雑誌50号(大正11年刊)を入手することができた。これは府立第一高等女学校創立50周年記念の特集号である。その中に新島八重のことが記されていることを知って、ずっと探していたのだが、なかなか見つからなかった。最近になってようやく古書目録で見つけたので、ここにその内容を報告したい。
 大正11年5月22日、府立第一高等女学校で50周年を祝う式典が盛大に催された。その式典に当時78歳の八重が参列している。八重は明治5年に創設された新英学校及女紅場の初期の教師だったことで、当時のことを語れる生き証人として式典に招待されたのだろう。八重は女紅場の語り部も務めたことになる。
 式典ではまず大石和太郎校長の式辞があった。その中に、

最初は新英学校及び女工(紅)場と申しまして、在京都の華士族の子女に英語及び女紅を授けました。当時の教師の中には、若州(若狭国今の福井県)小浜の志士、梅田雲浜先生の夫人幷に息女や、本日御列席の新島八重子女史なども居られました。

と八重のことを紹介している。続いて来賓の八重が懐旧談を語ったようだが、それは要約されて、次のようにまとめられている。

刀自は奥州の山中に生れられ、明治五年五月六日即ち女紅場創立当時に機業及び養蚕の教師として本校に奉職せられた事をのべられまして、その当時を回想せられ、「本校はもと主に華族士族の子女を教養する機関でありまして、当時の職員は女の先生が主で、梅田雲浜先生の夫人なども奉職してゐられましたが、男の先生は四五人にすぎず職員十三名に対して生徒数はわずかに三十名程でありました。そしてその生徒の服装は鉄漿おはぐろをぬり、懐剣をさし、実にその美麗な事は今日から想像も及ばない程で、ただ自分はこれこそ牡丹の花盛を見る様であると思ひました」とお話しになり、

これを読むと、当時の女紅場が華族や士族の子女を入学させていたこと、その生徒達の華美な服装まで活写されている。八重のことだから、多少のリップサービスも含まれているかもしれない。また開校4年目に7歳で入学した岡田しげ子の懐旧談にも、

当時の舎監は芦沢鳴尾刀自とて旧会津藩の老女をお勤になつた人格者で小猫を可愛がつておいでになりました。綴の錦や、機織の教室も板敷の大きなものでありました。新島八重子女史、山本うら子刀自、梅田千代子刀自、同ぬい子女史(梅田雲浜先生未亡人と令嬢)は機織や養蚕の先生でありましたと存じます。

と出ており、女紅場で八重が機織や養蚕を教えていたことがわかる。
 ここで注目したいのは、旧会津藩の葦沢鳴尾が舎監を勤めていることである。これも山本覚馬の差配ではないだろうか。山本といえば、ここに山本うら子という名前が出ている。これは覚馬の前妻うらとは別人である。可能性として本井康博先生は、窪田に嫁いだ山本家の長女(八重の姉)ではないかとされている(『八重さんお乗りになりますか』)。そのうらには、伊佐と清という二人の娘がいたようだ(覚馬の養女になったか?)。
 また日比恵子氏「八重と教育」『新島八重ハンサムな女傑の生涯』には、明治9年に米国博覧会に出品された女紅場の生徒の作品中に「覚馬厄介山本いさ22年3ヶ月」とあることが記されている。これこそ山本(窪田)うらの娘であろう。もしそうなら、いさは女紅場を卒業した後、そこで教師として勤めていたことになる。