🗓 2019年12月28日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

 鶴ヶ城籠城においては、八重の活躍だけがクローズアップされているが、母佐久をはじめとして、山本家の女性達は揃って鶴ヶ城に籠城していた。敗戦後の一家の消息は長らく不明とされていたが、近年『旧藩御扶助被下候惣人別』(北会津郡役所旧蔵)や『避難者名簿』が見つかり、そこに「塩川村 川崎尚之助 弐名」「山本権八 五名」とあることで、一家が塩川村(現喜多方市塩川町)に移住していたことがようやくわかった。ここに川崎尚之助・山本権八の名があるが、父は既に戦死しているし、尚之助も東京で謹慎中なので、一緒にいるはずはない。これは単なる役所の書式である。くれぐれも誤解のないように。
 その後、一家は1870年(明治3年)に塩川村から米沢藩の内藤新一郎方に移っている。このことも『元斗南藩貫属各府県出稼戸籍簿』に、

城下 内藤新一郎方出稼 山本権八妻辛未年六十二、嫁同三十五、孫女十、伯母同六十八 合四人女
川崎尚之助妻辛未年廿七 合一人女

と記載されていた。なお米沢藩の内藤新一郎は、かつて尚之助から砲術の手ほどきを受けており、その縁で援助の手をさしのべたのだろう。あるいは尚之助から家族を頼むと頼まれたのかもしれない。ここに記載されている伯母は佐久より年長なので、八重ではなく権八の伯母にあたる。
 翌年になって八重の運命が大きく動いた。薩摩藩によって処刑されたと聞かされていた兄から、手紙が届いたからである。覚馬は、これからの日本がなすべきことを進言した「管見」を書き上げ、それによって京都で顧問として重用されていたのである。おそらく手紙に京都へ来るようにと書かれていたのだろう。そこで一家揃って京都へ移住することになった。その折、最寄の役所に提出した書類も残っていた。

以書付奉願候事
私共家内両家〆五人内藤新一郎ニ因リ御藩え罷越申候間同姓覚馬妻不縁ニ相成リ斗南表え罷越申ニ付残リ四人今度西京表ニ罷り在候覚馬方より活計立兼(差急)可申ニ付一同罷越候様申越候ニ付罷登度奉存候依之御印鑑頂戴仕度此条奉願候以上
 明治辛未(四年)八月        山本権八家内印
                   川崎尚之助妻印
   米沢縣御役所

「西京」とはもちろん京都のことである(東京の対)。「御印鑑」とは、道中手形あるいは戸籍移転の書類のことである。ここにいう「四人」とは、前述の母佐久・八重・姪みね・伯母のことである。さっきの書類より人数が一人少ない。一緒に行くはずだった覚馬の妻うらは、京都に夫の愛人と子供がいることを知ってか、ここで覚馬との離縁を決意(京都への同行を拒否)したようだ。そのためうらは斗南となみへ移住し(一説には会津に帰り)、娘のみねだけが同行している。残念なことに、八重達が米沢から京都までどのような行程を辿ったのかわからない。あるいは新潟へ出て敦賀まで船で行ったのだろうか。
 京都で覚馬のやっかいになることになった八重は、そこで正式に山本姓に戻ったようだ(離婚成立)。一方の尚之助は、斗南藩で国際裁判の当事者となっていた。それもあって、尚之助側から離縁の話が出たのかもしれない。その後、尚之助は明治8年3月20日、東京医学校の病院(現三井記念病院)に入院中に慢性肺炎で亡くなっている。
 八重にはもう一つ厄介なことがあった。それは覚馬の後妻小田時栄とその娘久栄との同居である。これには覚馬も頭を悩ませたに違いない。それもあって明治5年4月、八重を新設された京都新英学校及女紅場の出頭女として出仕させている。八重は権舎長(寮務)を兼務していたので、住み込みだったのだろう。
 それだけではなく、京都で英語を学んでいた八重は、明治6年に開催される第二回京都博覧会に合わせて、英文(外国人用)の「京都案内記」の活字拾いを担当している。また同年8月から12月まで覚馬に付添って上京し、裁判の被告となっている槇村救出のために働いている。京都において新たな八重の活躍が始まったのだ。