🗓 2019年12月21日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

八重は、昭和3年9月28日に挙行された勢津子姫御成婚の喜びを、

いくとせか峰にかかれるむら雲の晴れてうれしき光をぞ見る

と歌っている。群雲が晴れて嬉しいのは八重ばかりではない。それは旧会津藩士すべての喜びでもあった。恐らく八重はこの歌を短冊にしたためて、何人もの旧友に送ったことだろう。日向ユキの子孫である内藤光枝(朱己江)さんのご自宅にも、この歌が書かれた短冊があった。ただし八重87歳とあるので、昭和6年に書き送ったものということになる。
 この御成婚を記念して、会津高等女学校(現葵高等学校)では昭和3年9月28日に「歴史的書画展覧会」が開催された(鎌田郁子先生資料提供)。八重はその展覧会に出品するため、三幅の書を揮毫して送っている。おそらく展覧会終了後、書はそのまま女学校に寄贈されたのだろう。それが現在、県立葵高等学校に所蔵されている次の3点である。

萬歳々々萬々歳 八十四歳八重子
美徳以為飾   八十四歳八重子
ふるさとの萩の葉風の音ばかりいまもむかしにかはらざりけり 八十四歳八重子

最初の「萬歳」は素直に御成婚の嬉しさを記しているのだろう。実はこれは2枚清書され、1枚は会津高等女学校に、もう1枚は風間家に所蔵されていることがわかった。どうやら久彦の目の前で2枚書かれたらしい。そのうちの1枚を久彦が頂いたという訳である。
次の「美徳」は京都を訪れた修学旅行生に語った「心の美人」の延長である。なおこの言葉は、かつて襄が熊本女学校に書き送ったものだったことを前に述べた。最後の「ふるさとの」歌は、実際に八重が会津若松を訪れた体験を詠んでいるもののようだが、ひょっとすると修学旅行生と対面して(会津弁を耳にして)詠んだ歌とも考えられる。
ところで葵高等学校には、もう1枚、

明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影 八重子 八十六歳拙筆

という書も所蔵されている。これには「86歳」とあるので、2年後の昭和5年に書かれたものであることがわかる。
 さて、同年に行われた昭和天皇の御大礼(即位式)に際して、日本赤十字社の活動の功績により銀盃を下賜された八重は、

数ならぬ身もながらへて大君の恵みの露にかかるうれしさ

とその喜びを詠じている。御大礼の後、11月17日に京都黒谷の西雲院において会津会の秋季例会が盛大に開催された。その折、慰霊碑の前で記念写真を撮影している。出席者62名の中に、八重も前列の良い場所で写っている。八重はその写真の裏に、

千代ふとも色もかはらぬ若松の木のしたかげに遊ぶむれづる

という歌を書き付けている(同志社大学社史資料センター所蔵)。