🗓 2020年03月21日
吉海 直人
篤志看護婦になった八重については前に述べたが、十分に語りきっていないので、ここでもう少し付け加えておきたい。まず日本赤十字社の正会員になるためには、年間3円以上の寄付が要件なので、誰でも正会員になれるわけではなかった。そもそも篤志看護婦会というのは、皇族・華族を中心とした上流階級の婦人達のボランティア団体である。その日赤の正会員になり篤志看護婦会に参加したことから、八重の新たな活躍が始まる。
明治27年に日清戦争が勃発した際、八重は篤志看護婦人会京都支会の監督(取締役)として、36人もの看護婦を引き連れ、広島の陸軍予備病院で従軍活動を行っている。その八重の活躍を大島正満(みつ坊)は次のように回想している。
(大島正満『随筆不定芽』(刀江書院))
これを読むと、八重は正満のところへ篤志看護婦姿で写っている自分の写真を送っていたようである。当時、八重は日赤の広告塔の役割を務めていた。ただし当時の正満は、篤志看護婦の役割がよく理解できていなかったらしく、八重が看護婦として負傷兵を看護していると思っていた節がある。だがその時、八重は看護婦の資格を有していなかったので、あくまで篤志看護婦(取締役)であったはずである。なんと篤志看護婦には看護師の資格は不要だったのだ。
日清戦争中の八重の活躍は、栗屋七郎「日本の黄鶯嬢」の中に、
(「日本の黄鶯嬢」女学雑誌四〇七)
と記されている。このインタビューも日赤の広告塔たる八重の仕事であった。八重の言動や写真が新聞・雑誌に多く登場(露出)しているのは、そのためだったのだ。
そういった八重の活躍は、当然同志社の卒業生たちの耳目に触れたことだろう。そのため岡山支部の同志社校友会会員安部磯雄他28名は、連名で八重に対して激励の手紙を送っている(明治28年2月23日付)。そこには、
云々と、八重への称讃が長々と綴られている。具体的に他の看護婦とどのように異なっていたのかはわからないものの、これによって同志社の中での八重の存在が重くなっていたことが察せられる。
日清戦争における篤志看護婦としての活躍が認められた八重は、勲七等宝冠章という民間女性初の勲章を授かった。この八重の叙勲でさえも、日赤の宣伝として十分効果的であった。そういった中で、八重自身看護の重要性に目覚めたのか、明治32年5月には日赤篤志看護婦会から看護学修業証を取得している。それが認められたことで、翌年7月には篤志看護婦人会の看護学助教を委嘱されている。八重はそれに満足することなく、明治35年10月には看護学補修科を学び、修業証を取得している。ここに八重の看護へのあくなき情熱が感じられる。
もっとも同志社には、京都看病婦学校という立派なナイチンゲール方式の看護学校があったのだが、八重はそこで学ばず、わざわざ日赤で看護を学んでいる。当時の八重における日赤の比重は重かったようだ。さて日清戦争の10年後に日露戦争が勃発すると、八重は60歳の老齢ながら再び看護婦を引率して、今度は大阪の予備病院で従軍している。その活躍で勲六等宝冠章を授与されるわけだが、八重の晩年は同志社との関わりを超えて、公共奉仕に捧げられていたといえそうでる。