🗓 2020年04月25日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

「明日の夜は」歌は八重の代表歌として有名であり、すでに「八重は「荒城の月」のモデル?」や「秀歌撰に載りそこなった八重」・「八重と天野謙吉」などで触れているが、もう少し詳しく紹介してみたい。この歌の作者が八重であることは、本人の談や歌の書かれた署名入り書幅の存在によって知られているが、よく見るとそれらはすべて八重が晩年に書いたものであり、この歌が詠まれた頃の資料は皆無といってよい。
そのためか数箇所に本文異同が生じている。参考までに綱淵謙錠つなぶちけんじょう氏の小説『戊辰落日(下)』(文春文庫・昭和59年7月)に掲載されている三種の資料をあげておこう。

  • a あすよりはいづこの誰か詠むらん馴し大城おおきにのこす月影

    (北原雅長『七年史』明治37年8月)

  • b 明日よりは何処の人か眺むらんなれし大城にのこる月影

    (平石辨蔵『會津戊辰戦争』大正6年5月)

  • c 明日の夜はいつこの誰かなかむらんなれし大城にのこす月影

    (『會津戊辰史』昭和8年8月)

おそらく綱淵氏は、小説を書くための資料収集の段階で、この歌に本文異同があることに気付かれたのだろう。さらにこの三種以外にも、「〈大城〉を〈御城〉とした本もある」と付け加えておられる。おそらくそれは、

  • d 明日よりは何處の誰か眺むらんなれし御城にのこす月影

    (平石辨蔵『會津戊辰戦争』昭和3年増補版)

のことであろう。こういった本文異同をまとめると、初句「明日よりは」「明日の夜は」、2句「いづく」「いづこ」「何国」・「誰」「人」、4句「御城」「みそら」「大城」「おう樹」、5句「残す」「残る」といった対立本文があげられる。
ここで留意したいのは、上にあげた資料の中で一番古いものが明治37年だということである。資料的にもっとも早いのは、東海散士の『佳人之奇遇巻二』(明治18年)に収録されている、

一婦あり。月明に乗じこうがいを以て国歌を城中の白壁に刻して曰く
明日よりはいづくの人かながむらん なれし大城にのこる月影
と髪をきって死者の冥福を祈れり。

である(本文はbと一致)。ただし、ここでは歌の作者が明記されておらず、「一婦」(図版では「烈婦」)の歌として紹介されている。
次に古いのは、「女学雑誌」391号(明治27年8月)所収の「會津城の婦女子(完結)」と思われる。そこには、

  • e あすの夜は何処のたれか眺むらんなれしおう樹に残る月かげ

    (川崎正之介)

と記されている。ここでは歌の後に「川崎正之介」とあることが注目される。普通に考えれば、これは歌の作者名であろう。「川崎正之介」とは、八重の夫であった川崎尚之助のことである。すると「女学雑誌」では、歌の作者を八重(女性)ではなく、夫(男性)と見ているのであろうか。もしそうなら、看過できない重要な指摘であるが、おそらく「川崎尚之助の妻」の意味(妻省略)なのだろう。
以上のように、古い資料は歌の作者を八重と断定していないことがわかった。「婦人世界」4巻13号(明治42年11月)に至って、「男装して會津城に入りたる當時の苦心」という八重の懐古談が掲載されているが、そこで八重自ら、

開城になったのが九月二十三日、その夜、三の丸を出ます時に、
あすの夜はいづくの誰かながむらむなれしみそらにのこす月かげ
といふ腰折れを一首よみました。

と自詠であることを語っている。ただし4句目が「みそら」となっているが、見出しに「誰か眺めむ古城の秋月」とあり、また写真に出ている歌では「御城」となっているので、ここは「みしろ」の聞き間違いであろう。
いずれにしてもこの歌の作者が八重であることは、明治42年までしか遡れないことがわかった。それまでは秘していたようである。

 

【佳人之奇遇の挿絵】