🗓 2021年03月14日

樋口副会長から「うちの先祖で、会津藩の家老内藤家に嫁に行った人がいる。」との話を受け、旧知の内藤家の子孫である斗南会津会長の山本源八氏と連絡を取った。家に資料が残っているので調べてみるということで後日連絡を頂いた。「確かに樋口氏から内藤信(のぶ)節(こと)の先代である信(のぶ)全(まさ)のところへ樋口家から妻を迎えている。」とのことであった。そこで樋口さんと内藤家老家の菩提寺泰雲寺に向かった。なんと樋口氏と廣川住職は高校の同級生だという。住職の案内で内藤家墓所に向かった。

内藤家は戊辰戦争時泰雲寺に逃れた。戦況思わしくなく、前当主の内藤可隠(享年67歳)はじめ一族は泰雲寺で自害し、寺に火をかけた。その時に自刃した一族が一か所に葬られている。内藤介右衛門信節の妻フサ(23歳)を含め、幼子を含め9人が自刃したのである。信節は現役の家老であり背炙山(せあぶやま)方面を守備していた。会津藩が降伏したのは旧暦9月22日であるが9月17日の出来事であった。樋口氏と大龍寺を訪問したときに一族の自刃した人々を埋葬した墓石に「内藤信全妻樋口氏」とあったのを見て樋口氏はお参りをしたのだが花を準備されており深く首を垂れていた。先祖が遺した資料の実際の証拠を見て感激されたようである。家に遺された資料があったものの墓参りは今回が初めてのことであった。またむつ市の山本会長の自宅に自刃した石碑を建立したときの写真と出席者名が遺されており、樋口氏の母と弟が参列していたことも判明した。信節は戊辰戦争後、斗南藩成立とともに移住して相馬家から後妻マスを迎えた。信節とマスの曾孫が山本会長である。五戸には信節が中心になって開墾した場所が「内藤田(ないとうでん)」として遺る。

山本八重の祖先の墓がある大龍寺に相馬家本家のものといわれる墓がある。こちらの相馬家は以前まで眼科医院を経営していた。そこへ私の家の前の同級生M・I君の叔母が嫁いだ。眼科医院は娘さんばかりで嫁ぎ先の新潟市の開業医のもとへ引っ越して、大龍寺にあるお墓は実業家である相馬家分家が祭祀を執り行っている。

喜多方市で情報誌を出版しているおもはん社の冨田國衛さんがいらっしゃる。昨年の顕彰祭にも参加いただいた。関東学院大学の創立者坂田 祐(さかた たすく)の祖父は日向内記である。白虎士中二番隊隊長で長らく少年を置き去りにした卑怯者と言われてきた。その通説に対して史実を調べ詳細に反駁した労作を発表された。今はそのおかげで日向内記が卑怯者とする意見は少数派となった。

冨田さんは相馬家の子孫の方がルーツを調べるために会津にきたので、丁寧に案内されたそうである。相馬家幕末の当主は相馬繋(つなぐ)であり、いろいろな史料にその名は出てくる。Tさんは岐阜県にお住まいだが、ルーツ調べに会津にきて天寧寺迄墓石を調べに行かれたようだ。相馬繋(つなぐ)につながる家系だそうである。

5月4日は院内御廟で会津松平家の法要「花まつり」が開催される。毎年、斗南会津会会長の山本会長は参列されている。昨年はコロナの為一般参加は見送られたが、今年はこれから役員会で内容が決定されるようである。もし、山本会長が会津に来られることがあれば一献傾けることになっている。樋口さん冨田さんなど関係者には連絡しているが、主催者の松平家奉賛会がどういう結論を出すのか気になるところである。

(文責:岩澤信千代)