🗓 2021年04月01日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

会津藩出身の野口富蔵について、みなさんはどれくらいご存じだろうか。さすがに宮崎十三八氏の『会津人の書く戊辰戦争』(恒文社)には書かれているが、私はほとんど気にもとめなかったことを反省している。最初に富蔵のことに注目したのは、イギリスの女性探検家イザベラ・バード著『日本紀行下』(講談社学術文庫)の「第52信十月三十日京都、二条さん屋敷にて」を読んだ時であった。そこには以下のことが書かれている。

これまでの二週間を、私の世話をしてくれる女性と大変多くの名所を見物したり、英語を話す日本人の野口氏とあちこちを訪ねながら楽しく過ごしてきた。野口氏は知事が、私の〈案内人〉をするように差し向けた人物である。

バードは明治11年(1878年)10月に京都を訪れ、宣教師ギューリック夫人の斡旋で、完成したばかりの同志社女学校の二階に宿泊していた。その彼女の世話は、舎監の山本佐久が務めたようである。また京都におけるガイド役は、槇村正直知事から命じられて野口富蔵が通訳を務めている。バードはパークス公使のはからいで外交官に準じる資格を得ていたので、知事も丁重にもてなしたのであろう。
 この記事を読んで、私は初めて野口富蔵という人物に関心を抱いた。彼が同志社出身ではなかったこともあって、同志社では誰も彼のことを気に留めていなかった。そこで改めて調べてみたところ、会津藩士野口成義の次男として、天保12年(1841年)に天寧寺町で生まれていた。兄の野口九郎成元は鶴ヶ城開城の際に尽力した藩士の一人であった。その富蔵の母は、日向ユキの父方の叔母楽である。なおユキのもう一人の叔母フジは柴佐多蔵に嫁いで太一郎兄弟を産んでいる。
成人後、富蔵は安政6年(1859年)に函館に渡り、文久3年から英国領事ハワード・ヴァイスに英語を学んでいる。慶応元年(1865年)には横浜にいた英国公使館書記のアーネスト・サトウ(野口より2歳年少)の通訳兼秘書兼用心棒となり、常に行動を共にしている。その縁で、サトウに梶原平馬を引き合わせているし、イギリス軍艦バジリスク号の見学まで手配している。サトウが薩摩に赴いて西郷隆盛と会見した際も、人脈を駆使して根回しをしていた。
用心棒としての活躍として、慶応3年(1867年)5月27日の夜中、掛川のサトウの宿所に例幣使の暴徒が乱入した際、富蔵は右手に刀を持ち、左手に拳銃を構えて暴徒を威嚇した。それに恐れをなした暴徒が逃げ出したので、一行は事なきを得たとのことである。
明治2年(1869年)、富蔵はサトウの休暇帰国に随行してイギリスに渡り、サトウの援助を受けながらロンドンの大学に入学している。翌明治3年、たまたま欧州視察中の西郷従道と面会したことで、その年から国費留学生となっている。明治5年(1872年)には岩倉使節団に工部理事官随行(通訳・案内)として雇用され、絹製造取調を命じられる。ひょっとするとこの時、新島襄とも面識を得ているかもしれない。
翌明治6年に帰国し、新政府に出仕した際の記録に青森県士族とあるので、書類上は斗南藩士だったことになる。富蔵はイギリス仕込みの英語力を活かして大蔵省・内務省・陸軍省などを渡り歩き、明治10年(1877年)には京都府勧業課に勤務(執行)している。それはちょうど覚馬が京都府顧問を辞した年だが、富蔵は西陣織の改良にも尽力しているし同郷でもあるので、山本覚馬とも知り合っている可能性が高い。また当時の京都府庁の中でもっとも英語が堪能だったはずなので、イザベラ・バードやグラント前アメリカ大統領の通訳にも抜擢されているのであろう(京都博覧会でも活躍していると思われる)。
 しかしながら明治14年(1881年)には兵庫県庁に勤務しており、2年後の明治16年に結核のため死去している(享年42)。若死にしたとはいえ、これだけの能力の持ち主でありながら国に重用されなかったのは、結核のためであろうか、それとも会津藩出身だったからだろうか。
彼の墓は神戸追谷墓園10区71号に建てられている。なお彼の伝記は2013年6月に国米こくまい重行(富蔵の曾孫)著『野口富蔵伝 幕末英国外交官アーネスト・サトウの秘書』(歴史春秋社)として刊行されている。会津藩に帰ることはなかったとはいえ、野口富蔵の明治維新後の活躍はもっと顕彰されてしかるべきであろう。