🗓 2021年02月01日
吉海 直人
明治初期、京都府の顧問となった覚馬の側には、才能のある若者が引き寄せられていた。明石博高は必ずしも若者とはいえないが、彼の京都における活躍は目覚ましいものであった。もっと若手となると、中村栄助・浜岡光哲・大沢善助・雨森菊太郎など京都で指折りの実業家があげられる。
ここに名前のあげられていない若者が、丹羽圭介・野澤雞一の二人である。この二人は十代の頃からその非凡さを認められていたようで、丹羽は明治6年の『英文京都案内記』を著しているし、野澤は覚馬の『管見』を口述筆記している。ただ同志社との関わりがないことからか、これまで二人について詳しく調べられることはなかったようだ。しかし彼らの活躍は、同志社を超えて評価されるべきであろう。
このうち野澤雞一については先に紹介したが、もう少し触れておきたいことがある。まず作家の中井けやきさん(『明治の兄弟』で有名)が、「けやきのブログⅡ」に「名誉は高く賃金は低くの弁護士、野澤鶏一(福島県)」というコラムで野澤雞一をとりあげておられることを知った。
そのコラムで引用されているのは、原口令成著『高名代言人列伝』(土屋忠兵衛刊)明治19年3月刊、野澤雞一著『閑居随筆』(篠原茂出版)昭和8年4月刊、野澤雞一編『星亨とその時代1、2』(東洋文庫)昭和59年9月の3冊である。野澤自身が所蔵していた膨大な蔵書や資料は、関東大震災によって灰燼に帰したとのことである。それもあって、野澤に関する資料は非常に少ない。まずはこの3冊に当たるのが正攻法のようである。
当初、山本覚馬の『管見』を口述筆記した人物ということで、私は野澤のことに興味を抱いたのだが、残念なことにこういった資料に覚馬とのかかわりは書きとめられていない。『高名代言人列伝』にも、覚馬との出会いは、
(122頁)
と記されているものの、『管見』のことには触れられていない。また彼の死後、『閑居随筆』という本が甥の篠原茂によって発行されているが、その中にも覚馬のことというか、『管見』のことにさえ触れられていない(注)。わずかに、
(116頁)
などとあり、覚馬のことも『管見』のことにも触れられていなかった。
ただし『星亨とその時代2』の解説に、
(390頁)
とあるので、この「家族及親族」に何か書かれていたのかもしれない。ひょっとすると野澤は意図的に語らなかったのではないだろうか。というのも、『管見』成立後に六角通りの監獄でひどい虐待を受け、足に脚気による障害が残っているからである。
ということで、覚馬とのかかわりが見出せないのであれば、これ以上野澤の伝記を追いかける必要はないのだが、その後弁護士(代言人)として活躍しており、その人生を中井けやきさんが紹介していたのである。覚馬とのかかわりがなくても、こんな立派な人を埋もれたままにしておくのは惜しい。むしろ弁護士としての野澤の活躍をこそ再評価すべきなのである。
野澤の弁護士としての人生は、星亨との運命的な出会いによる。星と出会った野澤は、その後の人生のすべてを星に捧げているといっても過言ではなかろう。野澤が弁護士になったのも、星の後を追ったからに他ならない。もし戊辰戦争がなければ、野澤は覚馬のもとで洋学を学び、京都の復興に尽力していたかもしれない。
というのも『高名代言人列伝』の中に、覚馬との共通点が書かれていたからである。それは野澤も失明の危機があったことである。
(119頁)
これが運命的に京都で覚馬と野澤を結びつけたのではないだろうか。最後に『閑居随筆』の「加言」末尾に引用されている野澤の歌二首を紹介しておきたい。
なべて世の人の云ふまま打捨てて我を立てねば心安かり
(注)『星亨とその時代2』の解説に「野澤鷄一は、野沢自身が記した「伝記資料」中の手記「我観記」と一九二七年(昭和二)より半舠老人の号名で述された草稿「閑居随筆」の「第一 家系及親族」、および令孫野沢安雄氏が草した「野沢家代々略記」「祖父鷄一の想ひ出」などによってみれば」(388頁)とあるので、これらを参照する必要がありそうだ。