🗓 2021年01月16日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

鎌田正夫の指導を受けた池袋清風(1847年~1910年)は明治期における桂園派の歌人として名を知られていた。清風は生涯に数千という歌を詠んでいるが、その全容はわかっていない。ただし彼の死後、門人の一人であった正宗敦夫が、その中から取捨選択して『かゝしのや集』という編年体の歌集を編んでいる(明治36年刊)。
その清風は、同志社の中で「案山子乃舎」という和歌の結社を主宰し、門人に和歌の指導を行っていた。だからこそ晩年の新島襄も八重を通して清風に「いしかねも」歌の添削を依頼しているのであろう。
幸いにして清風の活動は、門人達の歌を集めた二冊の歌集によってその一端をしることができる。一冊目は『浅瀬の波初編上下』であり、明治21年6月に刊行されている。もう一冊は『浅瀬の波第二編上下』で、こちらは明治27年4月に刊行されている。
清風の門人の中で、傑出しているのは岩佐吉郎(半月)と大西祝の二人であろうか(磯貝由太郎の夭折も惜しまれる)。それを含めて初編下巻末尾の社中名簿には、

岸本能武太・佐藤惟昇・湯浅吉郎・三輪長行・新原俊秀・重見周吉・中村可菴・津田元親・井出義久・秦明・阿部磯雄・津田久之・志垣要三・白木正蔵・下村房子・木山巌・縄田瑞穂・葛岡道香・矢口信夫・加藤壽・北村縫子・新島是水・蔵原惟康・田中米子・三原よね子・中島茂子・高松仙女・松田道子・竹内竹子・竹友梅代子・川島為子・磯貝由太・鈴木佐馬・畠山一松・徳富健二

といった名前があがっている。末尾の「徳富健二」は「徳冨健次郎」(蘆花)であるから、蘆花も清風に和歌を習っていたことがわかる。その健二の歌は、

夕日さすいな葉がうへに風たちて涼しくなりぬ小山田のさと

であった。

それよりもこの中に「新島是水」とあることにも注目される。「是水」はいうまでもなく新島襄の父民治のことである。その歌は、

雪にふすそのゝくれ竹おきかへり今朝より千代の春は来にけり
山の端にかたぶく月やをしむらん雲ゐはるかになくほとゝぎす
月と我さしむかひたる柴の戸におとづれそめし秋の風かな

の三首が掲載されている。ただし民治は明治20年に80歳で亡くなっているので、これは亡くなった後で出版されたことになる。

なお「松田道子」とあるのは、後に同志社女学校の校長を務めた「松田道」であろう。彼女の歌は、

野とあれしわがふるさとの梅が香の袖にうつるぞあはれ也ける
うち霞む都の空も雁がねのかへるゆふべはさびしかりけり
人の世はあらしの山のさくら花咲かとみれば散はてにけり

の三首である。女学校からは高松仙・中島茂子も一緒に和歌を学んでいる。

次に第二編を見ると、社中の個別社員に「徳富久子」「湯浅初子」や「新島八重子」の名前が出ている。その社中の人数は二百五十四名にまで増加していた。まず「新島八重子」の歌としては、「須磨にものしける時」という詞書で、

たちならぶ松ばらごしにみゆる哉月てり渡る須磨のうら浪

が掲載されている。もう一首「夫の身まかりける年の春」という詞書で、

ひとりねのねざめの床は春雨のおときくさへぞさびしかりける

も出ていた。

ついでに『浅瀬の波』の末尾広告を見ると、

浅瀬の波 初編  全二冊 木版和装美本正価金三十銭
同    第二編 全二冊 右同
歌学第一の心得   近版 全一冊
波の下艸 初編   近版 全一冊

と出ていた。最後に出ている『波の下艸』は近版とあるが、出版されたのかどうかわからない。清風は明治27年に結婚して大阪に居を移したことで、同志社での和歌指導はやめたようである。第二編は「案山子乃舎」最後の歌集ということになる。

明治29年、家族で郷里都城(宮崎県)に帰った清風は、その4年後に54歳で亡くなっている。彼の死とともに桂園派和歌も消滅してしまった。