🗓 2021年12月14日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

知人から、東京土産に一心堂本舗の「新島八重南瓜かき餅」をいただいた。もちろん私が新島八重について調べていることを知っていて、わざわざ買ってきてくれたのである。しかしながら私は、新島八重の名前が冠されたこんなお菓子が売られていたことを知らなかった。

もちろん古くからあったのではなく、NHKの大河ドラマ「八重の桜」が放映された際、それに因んで発売されたものだと思われる。そのことはお菓子の袋の裏に、新島八重についての簡単な説明が書かれていることからも察せられる。

ここですぐ気になったのは、八重とかぼちゃの結び付きについてである。というのも、私の知っている八重の伝記に、かぼちゃは出てこなかったからである。それにもかかわらず、お菓子の説明書きには、

籠城戦の際、籠城食のひとつとして食されたのが「かぼちゃ」。保存がきき、腹持ちが良い「かぼちゃ」は、一ヶ月にも及ぶ籠城戦を生き抜いた会津の人々の命をつなぎました。

と記されていた。

これをよく見ると、決して八重がかぼちゃを食べたとは書いていない。ただし籠城戦の際に会津の人々の命をつないだ籠城食の一つとあるので、八重も食べた可能性はあったということになる。この件は私にとって盲点であった。八重が食べ物に興味があることは資料的にわかっていたのに、かぼちゃとの関わりは完全に抜けていたからである。一体どこにそんな資料があったのだろうか。そこであらためて調べ直してみることにした。

手元にある資料に当たってみたが、やはり八重がかぼちゃを食べたという記述は見つからなかった。ところが思いがけないところに、かぼちゃが出ていたのである。それは平石辨蔵著『会津戊辰戦争増補』という本の中であった。昭和三年に増補された八重の談話の中に、

総攻撃中であつたが、南摩綱紀の甥節みさを(通称左近)は暁霧に乗じ、副食物の捜索に出で、南瓜を沢山集めて帰城の途中、南門附近に於て小田山の砲弾のため右大腿骨を粉砕され、人にかつがれて来ましたが、腰が立たぬのでわたしは大きな石にりかからせ、草鞋わらじをとり袴を脱がせて手当をしてやりましたが、少しも泣かず又痛いともいひません、其時やぐらの處より見て居た南摩家の従僕がおほいに驚き馳せ来たり此惨状を見ると聲を放ち泣き出しました、しかるに節は此時十五才でしたが僕に向ひ「見苦しい泣くな、武士は仕方がないじゃないか」と、いと謹厳な元気のある聲にて之を戒めてあった、然し此勇敢な節も出血多量のため遂に死亡しました。妾も此子の元気には関心してあった。

(490頁)

と記されていたのである。もちろんこの記事は読んで知っていた。ただし節のことに気を取られてしまい、冒頭の「南瓜」には気づかなかったというか、まったく目を留めていなかった。

おそらくこれが「新島八重南瓜かき餅」の唯一の証拠だと思われる。加えてもう一つ、間接資料だが、間瀬みつが書き残した「戊辰後雑記」にも、

けふけふとしのぎおり、大豆、南瓜、いづれもおとしみそにて煮申し候、壱升だきなべにてに候て、二拾壱、弐人にて給候事故、いつも物ふそくに覚申し候、

(『会津戊辰戦争史料集』新人物往来社・197頁)

とかぼちゃの記述が出ていた。この二つの記事に注目して、一心堂本舗が「新島八重南瓜かき餅」を製造販売しているとしたら、それはすごいことである。

これにもう一つ付け加えることがある。「南瓜かき餅」はかき餅の中にかぼちゃの粉末が入っているものだが、肝心のかぼちゃにも秘密があったからである。それは何かというと、当時の会津では一般的なかぼちゃとは違う、会津独特のかぼちゃが植えられていたのだ。それが「会津小菊南瓜」である(別称「飯寺かぼちゃ」)。

江戸時代には普通に会津で作られていたとのことなので、節が集めてきたかぼちゃは「小菊南瓜」だったに違いあるまい。ところが明治以降、大量生産に向かないということで、ほとんど生産されなくなった。幸い心ある人たちによって、現在復活されて会津伝統野菜の一つに認定されている。ひょっとすると、これも「八重の桜」のおかげなのかもしれない。今度会津に行ったら是非食べてみたいものである。