🗓 2022年01月01日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

新島八重のことを調べていて、八重のように活躍した会津藩士の娘たちが何人もいたことに気づきました。日向ユキや大山捨松はもちろんですが、その他にも明治以降にたくましく生きた瓜生岩子・若松賤子などがあげられます。その点は、八重の生き方と共通する会津魂といえそうです。
 今回紹介する海老名リンは、八重の伝記に登場していないこともあって、私もこれまでほとんど注目していませんでした。たまたまリンが設立した若松幼稚園が現在も存続していることを知り、改めてリンの活躍を調べてみたくなりました。
 海老名リン(旧姓日向リン)は、嘉永2年(1849)3月に会津藩士日向新助と妻まつの次女として生まれました(誕生日は未詳)。八重より4歳年少です(日向ユキより2歳年長)。7歳頃から父に習字や和歌を習ったようです。13歳になると、神尾ふさ子について裁縫を習いました。その頃、縁談が持ち上がっていますが結婚には至らず、慶応元年(1865)10月に、17歳で会津藩士の海老名季昌(天保14年生まれ)と結婚しています。季昌は藩の軍事奉行だった父季久から文久3年(1863)に家督を相続していました。
 京都詰めになった季昌はきわめて優秀な藩士だったようで、慶応3年(1867)には選ばれてパリの万国博覧会に徳川昭武(慶喜の弟で、NHK大河ドラマ「晴天を衝け」にも出演)の随行員としてフランスに渡航しています。しかしながら大政奉還などにより、その年のうちに急遽帰国しています。日本に戻ってみると、正月には鳥羽伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争に巻き込まれていきます。季昌は若い家老として、鶴ヶ城に籠城して戦いました。
 ところで昭和55年に放映されたNHKの大河ドラマ「獅子の時代」は、山田太一の創作(フィクション)でありモデルは存在しないといわれていますが、フランスに留学し鶴ヶ城に籠城した会津藩士となると、どうしても平沼銑次せんじに海老名季昌を重ねてみたくなります。
 戊辰戦争敗戦後、家老だった季昌の責任は重く、江戸に送られて謹慎生活を強いられます。リンは実家の家族と一緒に斗南藩へ移住し、生活苦の中で夫の帰りを待ちました。二人が再会できたのは、明治4年に季昌が罪を許され、青森に赴いてからです。その後、季昌は元薩摩藩士・三島通庸みちつねの知遇を得、通庸に従って東北各地を転々としています。その間、明治15年に長女モトが誕生しました。明治19年に三島が警視総監に任命されたことで、季昌一家も上京しています。
 東京に来てキリスト教に触れたリンは、夫の反対を押し切って明治21年3月3日に霊南坂教会の綱島佳吉牧師からで洗礼を受けました。また矢島楫子かじこを手伝い、明治23年には東京婦人矯風会の副会頭まで勤めています。同年、湯浅初子(徳富蘇峰の姉)から幼稚園の経営を託されたリンは、麻布共立幼稚園を開園しました。また資格を取得するために近藤浜幼稚園保母練習所を卒業し、幼児教育・女子教育の道をつき進んでいきます。
 その後、夫の警視庁退職にともない、明治25年に郷里会津若松に戻ったリンは、早速若松幼稚園を創立し、県知事から保母の免許状を授かっています。リンは福島県における保母第一号でした。同年、念願だった若松女学校(後の会津女学校)も開校させています。教育のために懸命に働いたリンですが、過労が蓄積して結核を患い、明治42年4月20日にその生涯を終えています(享年61)。その年、会津女学校は県に移管され、県立会津高等女学校(現在の葵高校)となりました。そこで八重が講演したのは、遅れて昭和3年のことです。
 幼稚園の経営は、娘のモトが引き継いでくれました。あれだけリンの入信を反対していた季昌ですが、家族がみなキリスト教に入信したことで、ついに明治36年に彼も若松教会で金子重光牧師から洗礼を受けています。そして最後の会津若松町長として市制移行に尽力し、大正3年8月23日に71歳でこの世を去りました。
 こうして人生をたどってみると、同郷の八重とリンはどこかで出会っていてもおかしくありません。嫁ぎ先の海老名家など、山本家の向かいにありました。たとえ海老名家の方が格上だったとしても、日向ユキの例もあるように、家同士・娘同士の交流はあったに違いありません。しかしながら今のところ、二人が会ったという記録は報告されていません。霊南坂教会あるいは東京婦人矯風会の活動などでも、二人の交流がわかる資料が見つかることを願っています。
 なお若松幼稚園の経営は海老名モトから玉川喜代子に移り、現在は玉川祐嗣氏が理事長として学校法人若松幼稚園を運営されています。会津若松でもっとも歴史のある幼稚園で、令和4年に創立130周年を迎えます。