🗓 2022年01月01日

同志社女子大学特任教授
吉海 直人

海老名リンについて調べているうちに、夫の季昌もまた波乱万丈の人生を送っていることを知り、ついでにまとめてみることにしました。幸い季昌については資料が豊富に残されているので、むしろ切り捨てることに苦労するくらいです。
 季昌は天保14年(1843)の七夕の日に、父季久の長男として誕生しています(母の名は未詳)。弘化2年(1845)、3歳の時に天然痘にかかり、生死の境をさまよいました。まだ種痘が広まっていない時代のことです。幸いこの時は両親の手厚い看護もあって、どうにか死をまぬがれました。ただしその後遺症なのか、しばらくは歩行も困難だったようです。
 ところで、前にリンと八重の交流の資料が見当たらないといいましたが、季昌の家は山本覚馬の家のすぐ前だったこともあり、玉川芳男編著『海老名季昌・リンの日記』に記述が見られました。それは嘉永元年(1848)、季昌6歳の時のことです。「初めて真向いの山本様にお頼みくだされて学問を始めました」「ある日、孝経を持って先生のところへ行き、本を開いて忽ち気を失って倒れました」とあります。
 見逃してしまいそうですが、ひょっとしてと思い直しました。幸いその直前の弘化2年の記事に、「この時郭内米代四ノ丁一柳某の旧屋敷を拝領し移住しました」とありました。これでもう間違いはありません。山本家から道を隔てたところに、一柳邸があったからです。次はこの山本様が誰かということです。文政11年(1828)生まれの覚馬は、この時23歳になっています。しかも翌嘉永3年に選ばれて江戸へ留学していますから、この時は会津にいました。もちろん父の権八でもいいのですが、私としては、季昌は覚馬に学問を学んだのならいいなと思っています。
 嘉永4年(1851)、父が上総の軍事奉行添役を命じられた際、9歳になった季昌も上総に行き、富津(千葉県)にあった日新館の分校に入学して砲術を学んでいます。安政元年(1854)には江戸へ移り、ますます勉学に励みました。その頃、覚馬も江戸にいましたが、安政三年に帰藩して蘭学所の教授となっています。どうも二人はすれ違ってばかりで、季昌は日新館で覚馬の教えを受けることはなかったようです。
 成人した季昌は、文久3年(1863)に父季久から家督を相続し、元治元年(1864)には京都勤番を命じられています。京都に到着早々、禁門の変(蛤御門の変)が勃発しており、季昌も長州との戦に参加しています。ここでも覚馬と合流しているはずですが、互いに相手のことには言及していません。
 慶応元年(1865)、暇をいただいて会津に帰った季昌は、日向新助の娘リンと結婚しました。季昌23歳、リン17歳のことです。新婚生活は短く、翌慶応2年に季昌は京都詰大砲組組頭として戻っています。そんな騒動のさなか、パリ万国博覧会に参加する徳川昭武の随行員に撰ばれ、慶応3年正月に横浜から出航しました。フランスでは語学を学び、見聞を広めていましたが、10月になると生活費の工面ができなくなり、帰国することになりました。
 慶応3年12月に横浜に到着した季昌は、すぐに大砲組組頭に復帰し、京都の警護に赴きました。翌慶応4年正月3日になると、鳥羽伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争が勃発します。この時も覚馬とはすれ違いだったのでしょう。この戦いで右足を負傷した季昌は、江戸で怪我の治療をし、2月に会津に帰りました。そして籠城のさなか、9月に家老職を拝命します。
 敗戦後は、家老として重い処分が待っていました。最初、細川家に預けられ、次に加賀金沢藩に移されました。明治4年10月には青森県に預け替え(自宅謹慎)となり、翌明治5年にようやく謹慎が解かれました。季昌は切腹を免れたのです。その後、紆余曲折を経て、三島通庸の警視総監就任に伴い、警視庁の課長として上京することになりました。
 ここから妻リンの活躍が始まります。リンは夫の反対を押し切ってキリスト教の洗礼を受けました。普通だったら離縁するところですが、ヨーロッパの文明社会を見聞した季昌ですから、思い留まったのでしょう。それにしてもリンの覚悟・実行力は大したものです。
 明治25年に警視庁を辞職した季昌は、一家で会津若松に戻りました。戊辰戦争以降、会津に戻れなかった旧藩士も少なくないはずですが、季昌は晩年を生まれ故郷の会津で過ごすことにしたのです。最後の会津若松町長というのも、彼の人生にふさわしいですね。こうして大正3年8月23日、季昌はリンの待つ天国に召されました(享年71)。幼少期には病弱だった季昌ですが、何度も死にそうになりながらここまで長生きしました。これも会津藩士の見事な生きざまではないでしょうか。