🗓 2022年01月11日
吉海 直人
会津藩士の野村左兵衛をご存じでしょうか。野村家の先祖である野村但馬織部定光は、蒲生氏郷の転封に伴って近江から会津に移ってきました(600石)。氏郷の没後、三人の子供が保科正之に召し抱えられて以来、歴代の会津藩に仕えています。定光の嫡男與惣右衛門盛時の子孫が飯盛山で自刃した野村駒四朗で、三男甚兵衛盛重の子孫が甚兵衛与四郎、四男所左衛門直重の子孫が八代・野村左兵衛直臣です。
佐兵衛は七代・左馬之丞直樹(400石)の二男として文化12年(1815)に生まれました。幼いころから聡明で、澤田名垂や野矢常方に和歌を学びました。長じて長沼流の兵学を修め、軍事奉行を任されています。安政6年(1859)には、44歳で江戸屋敷公用人(留守居役)に任命されています。
文久2年(1862)、容保の京都守護職就任に際し、賛成派だったことから容保の信任を得ました。先遣隊の一人として家老の田中土佐・外島機兵衛・柴太一郎等と京都に派遣され、京都の様子を探索しています。元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)の後、筆頭公用人として活躍しています。その間、公用人として秋月悌次郎や広沢安任・大庭恭平等を登用し、公武合体をめざして公家や諸藩との交渉や内偵で多大の成果をあげました。
左兵衛は温厚篤実の性格で、人望も厚く藩士からも信頼を得ていました。中根雪江著「再夢紀事」には、「長沼流の軍学家にして諸藩にも門人多く会藩第一等の人物なる由にて一藩の依頼たり。病身の由にてこの日も腹痛難儀なりとて対座勝ちにて」云々と評されています。
もう一つ忘れてはならないのは、新選組を肥後守(容保)預かりとして登用したのも、この左兵衛だったことです。慶応元年五月の佐兵衛の書状(国立公文書館)を見ると、毎月1、3、6の付く日に新選組が大銃と小銃の稽古をしていることが記されています。このご時勢ですから、新選組も刀だけに頼らず砲術の稽古もしていたことがわかります。
左兵衛がもう少し長生きしていたら、もっと活躍していたに違いありません。しかし左兵衛は戊辰戦争敗直前の慶応3年(1867)、容保の京都守護職辞任を画策していた5月19日(新暦6月21日)に、病のために亡くなってしまいました(享年53)。墓は黒谷の会津墓地にあります。辞世の歌は、
とされていますが、辞世らしい詠みぶりには見えません。他に、
という歌も伝わっています。おそらくもっとたくさんの歌を詠んだはずです。
なお1973年にフジテレビで放映された『新選組』では、田村高広演じる左兵衛は、大阪城内で自害しています。また1986年に放映された日本テレビの『白虎隊』では、竹脇無我が左兵衛の役を演じていますが、天王山の戦いで戦死したことになっていました。残念なことに、大河ドラマ『八重の桜』に左兵衛は登場していませんでした。
佐兵衛には子供がいなかったので、弟の左馬之丞が跡を継ぎました。その左馬之丞も慶応4年閏4月の白河口の戦いで戦死しています(享年47)。その長男の直は、白河口の戦いで怪我をしたため、鶴ヶ城籠城には加われませんでした。戊辰戦争敗戦後は一家で斗南の大畑村に移り飢餓に苦しみましたが、廃藩の後に故郷会津に戻っています。
新島八重の兄山本覚馬も、京都では公用人の一人だったので、左兵衛は覚馬の直属の上司だったことになります。左兵衛のもとで覚馬も思う存分働きたかったでしょうが、禁門の変で目を悪くしてしまい、秋月や広沢のような活躍は叶いませんでした。きっと悔しい思いをしたに違いありません。両者の交流がわかるような書簡が見つかればいいですね。